今年は、野田村は、公式な追悼式典を行わなかった。震災から8年が経過し、そうやって、少しずつ、静かさを取り戻していくのかもしれない。
でも、僕は、例年通り、献花台へ行き、白い花を海へ向かって手向ける。手を合わせて祈る。何に対しての祈りなのだろう。一昨年、イギリスから野田村に来た研究者は、こう言った。「われわれキリスト教徒は、こういうとき、神に向かって祈ることができる。でも日本人は、一体誰に向かって祈りをささげているんだ?」僕は、この問いに今もきちんと答えることができない。震災を機に野田村に通いはじめた僕は、亡くなった人びとの顔を一人も知らない。ただ、想像の中の誰かに向かって、それでも、ただ祈る。
祈りとは、なにか巨大な事柄に対して自分には何もすることがなくて、それでも、何もしていないわけにはいかなくて何かをしなくてはならないと強く思うとき、ひとりの人間にできるほとんど唯一の行為なのかもしれない。
14時46分が近づいてきて、いつも野田でお世話になっている方と献花台のそばで出会う。彼女は、近い親戚を津波で亡くされている。彼女は、視界に僕の姿を認めると、近寄ってきて話しかけてくれる。
「今日はひどい天気じゃない?今年はほとんど雪が降らなかったのに、こんなに降るなんて。まるで、3月11日という日を忘れないでって言われてるみたいだわ。だって、これだけ寒ければ、来年になっても覚えてるじゃない。そういえば去年も11日は寒かったわね。ほら、こうやって思いだせるの。でも、東北はこれからだんだん暖かくなっていくわ。暖かくなってくると暖かい雨が降るの。今日みたいな冷えた雨じゃなくて。暖かい雨は、今度はもっと暖かい雨を呼んでくるの。そうやって、この辺りも春になっていくのよ」
これは、ほんの世間話に過ぎないのかもしれない。でも、僕は、彼女の言葉の中に、未来に向けたまなざしを感じ取ってしまった。これから来る春。そして、一年後の今日。それはきっと、「去年はひどく寒い日だったな」と思いだす日になるはずだ。
僕は、そんな日が必ずやってくることを想いつつ、祈る。祈るとは、ときに、未来という漠然とした、ほんとうに存在するかもわからないものに対しての、ささやかな約束にもなるのだ。
