「ケアの光と影」
「ケア」の必要性が叫ばれ始めて久しい。実際にデイケアの数は増えている(はず)だし、災害後の避難所に行けば「心のケア」のブースがあることは多いし、「ただそばにいること」の重要性も認知されてきている。ケアに対して、悪い感情を持っている人は、ほとんどいないだろう。「ケア」は現代社会に非常に欲せられている。
しかしながら、「ケア」あるいは「ただ、いる、だけ」というのは、実は苦痛を伴うものでもある。例えば、評者は、学部生の時にとあるデイケアにボランティアとして行っていたことがある。意志の疎通がほとんど不可能なくらいの障害をお持ちの方と二人でペアになって、一日を過ごすというボランティアだった。もちろん、することは何もない。会話も通じない。ただひたすら、ぼーっとしているだけである。こういう時に限って時間が進むのが遅い。逃げ出したくなる(この時の様子は詳しくは拙エッセイ「弱さの力」をお読みください)。「ただ、いる、だけ」というのは、基本的には苦痛を伴うものなのである。居るのはつらいのである。
本書は、京都大学を卒業後、沖縄のデイケアで数年間臨床心理士として働いていた東畑開人先生の、デイケア論である。デイケア論といっても、本書で描かれているのは、デイケアの日常である。本書は一流の「小説」としても読めるほど面白い。本書の冒頭部分で、「居るつらさ」がありありと描かれている。引用しよう。
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何もすることがないし、何をしてもいいかわからないし、どこにも行けないから、時間を潰すためだけにタバコを吸う。
肺が重い。
「それでいいのか?それが仕事なのか?」
(中略)
することがないから時間が進まない。肺だけではなく、時間まで重たくなる。
不毛な時間が僕らを侵す。
(中略)
「それでいいのか?それ、なんか、意味あるのか?」
答えることができない問いを前に、僕は答えることを諦める。
「わからない、居るのはつらいよ」
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居るのはつらい。でも、つらいのはなぜだろうか。それについて考える前にケアとは何かについて本書から学んでみよう。
ケアとは、「とりあえず座っている」ことである。この「いる」ということがケアの基盤になる。そして、「いる」ことは誰にでもできる仕事である。キテイはこういう素人仕事のことを「依存労働」と呼んだ。「依存労働」とは、誰かにお世話をしてもらわない人のケアをする仕事のことであり、母がしているようなすべてを一人でまかなうような仕事である。そして、このような労働の形態は、ウィニコット的な「遊び」の形態と近くなる。ここで言う「遊び」とは、ゲームをして楽しいとかそういうことではなく、「一緒に○○する」ということである。依存労働は、その原初的形態において既に複数人を必要としているのである。
ケアについて一言で言うならば、「『一日』を過ごせるようになるために、『一日』を過ごす」(p.188)ということである。この「すごす」のトートロジーこそがケアの本質である。そして、本書の舞台であるデイケアとは著者の言葉を借りれば、「究極のコミュニティ」である。なぜなら、「それは『いる』ために『いる』ことを目指すコミュニティであり、コミュニティであるためにコミュニティであろうとするコミュニティだからだ」。いるということがケアの重要な点であった。それゆえ、デイケアは、ケアのためにケアをする場所と言い換えることもできる。このとき、ケアをする側とされる側というような主体客体の擁立はなされない。いうなれば、デイケアにおけるケアの主体は、デイケアという「コミュニティ」なのである。このことは、國分功一郎の中動態概念を参照すれば理解できよう。つまり、デイケアにおけるケアとは「コミュニティの内部で生じて、コミュニティの内側で作用する」(p.224)ものなのである
本書では、これらをまとめて、ケアとは「傷つけないこと」であるとまとめられる。デイケアのメンバーさんは、様々なニーズを挙げる。そのニーズにひとつひとつ答えていくことで傷つかないようにすることがケアなのである。メンバーさんたちは、社会の中でうまく「いる」ことができない。だから、ちゃんと「いる」ことができる場としてデイケアがある。それゆえ、「いる」ということはケアとして機能するのである。ケアは外的な変化の圧力に耐え、日常を再生産していくのである。
対照的に、セラピーとは、傷つきに向き合うことである。そしてそれはニーズを変更することである。例えば、「一緒にいてほしい」というニーズに対して、ずっと一緒にいることはできない(一日のうち23時間とか一緒にいることが求められてしまう!)。だから、セラピーは、「一緒にいてほしい」と望むメンバーに対して「一緒にいなくても、自分のことを悪く思っていないとわかる」ようにしていく。セラピーは、変化のための介入をするのである。
さて、本書では、さまざまな「いることのつらさ」が例示されている。たとえば、手持ち無沙汰。何もすることがないというのは苦痛である。そのため、デイケアでは、カードゲームやスポーツなどでみんなで「遊ぶ」ことで、「いる」ことのハードルを下げていく。しかしながら、もっと深刻なのは、人が辞めていってしまうことである。本書において、中心人物となる男性看護士が3人いる(というか、舞台となるデイケアには看護師は3人しかいない)。しかし、その3人は、数年で全員辞めてしまう。挙句の果てには著者の東畑先生も辞めてしまう。これはなぜなのか。東畑先生は、ケアをめぐる社会の構造が問題ではないかと論を進めていく。
ブラックデイケアというものがある。いることを続けるということは、「治さない」ということでもある。つまり、患者が常に治療費をはらい続けてくれるという構造がデイケアにはある。患者さんに「いてもらう」ことによって収入が得られる。そのため、あるデイケアは、患者をそこに閉じ込め、出ていかないようにする。「いる」ことを管理し始める。「いる」ことを強制する。デイケアの経営のために、効率性とか生産性を高めるために、「いる」ことが利用される。こうなったらもはや、「いる」ことは脅かされている。
「居るのはつらいよ」。本書のタイトルの意味がここで明かされる。「ただ、いる、だけ」の価値は、それによって金銭を得られるということに頽落してしまう。ケアという何をやっているのかよくわからない世界は、セラピーという変化が良く見える世界にとってかわられてしまう。「ただ、いる、だけ」は、その価値を金銭収入に求めるしかなくなってしまう。いることの重要性は、それを理解しようとしない会計の人たち声によって容易にかき消されてしまう。「居るのはつらいよ」。
本書で、解決策は示されていない。しかしながら、東畑先生のいきいきとした筆致は、いることのかけがえなさを鮮やかに描写している。このような言葉が、このような金銭を産み出さない非生産的な言葉が、じつは、「いる」ということを守っているのだ。
