無力感と消去法

 梅雨が明けない日だった。7月になってもずっと蒸し暑く、換気を忘れた古びたサウナに閉じ込められたかのような静かな圧迫感があった。

 選挙結果も同じような圧迫感をともなって現れ出た。自公で単独過半数は達しなかったが、与党の体制は盤石であることは明らかだった。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190722/k10012002651000.html

 しかし、冷静にかんがえてみれば、いくつかの矛盾があることに気づかされる。まず確認しておきたいのは、今回の選挙で勝った自民党は、消費税増税に賛成しており、他の主たる政党は、公明党を除いてすべて増税に反対しているということ。そして、憲法改正についても推進派は、自民と維新だけであるということ。選択的夫婦別姓や同性婚に強く反対しているのは自民党であるということ。加えて言えば、その他の論点は、どこもそれほど変わらないということ。これらのことを考えれば、国民の多数を占めるはずの自民党の支持者は、「消費税増税賛成、改憲賛成、選択的夫婦別姓や同性婚に反対」ということになる。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190711-00010000-senkyocom-pol

 しかし、その他のニュースを見てみると、むしろ、国民の大多数は、「消費税増税反対、改憲反対、選択的夫婦別姓や同性婚に賛成」とみる方がよさそうだ。

 たとえば、消費税増税反対は57%であり( https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190721/k10012001651000.html )、改憲については、必要派29%不要派27%と極めて拮抗しており( https://www3.nhk.or.jp/news/special/kenpou70/yoron2018.html )、選択的別姓については、容認42.5%不要29.3%と容認派が大きくリードしている( https://www.asahi.com/articles/ASL2B4SLHL2BUTIL00R.html )。

 これらのことを素直に考えれば、国民は、自分たちの希望と正反対の主張をしている政党に票を投じているということになる。この矛盾こそが、現代日本の大きな問題である。

 この矛盾は、喩えるなら、配偶者の暴力から逃げ出そうと思っているのに逃げ出せない被害者の持つ矛盾と同型である。ひどい暴力にさいなまれながら、「この人は本当はいい人に違いない」と思うことで、なんとかやり過ごそうとする。このようなことが国政を通して常に行われている。

 そして、この矛盾した思考は、ある合理性を持って現れてくる。それは、「他の野党よりマシ」という消極法である。民主党が政権交代を果たしたにもかかわらず、結局、かれらは自民党時代の政策をキャンセルし、仕分けを行うことで、新しさをアピールしようとした。しかし、それは無残にも失敗した。彼らのやり方は、地方行政のやり方でしかなく、国政を動かすということには、悲しいほどに向いていなかった。いうなれば、せっかくDV家庭から抜け出したのに、新たな家庭でもっとひどい仕打ちを受け、結局元のさやにもどってしまったという感じである。

 だから、いまのわれわれは、政治に対して無関心を貫いている。いや、無関心というよりも無力感である。もっと深い傷を負わなくするためには、環境を変えるリスクを取るよりは、現状の痛みをとにかくやり過ごすという方法を取らざるを得ない。われわれの無力感は、学習した無力感なのである。それは、社会学者のバンデューラが言うように、きわめて強い無力感である。

 モーニング娘。のとある曲の一節に選挙に行く家庭が描かれている。

 親に連れられて選挙に行き、投票用紙を渡され、記名台に向かう。そこには知らない政治家の名前しか書かれていない。だれがどんな主張をしていて、どんな成果を残してきたのか、自分には何もわからないということが思い知らされる。誰の名前も書けない。しかし、親は、すでに誰かの名前を書いて投票を済ませようとしている。ヤバイ。誰かの名前を書かなきゃ。よく見ると、何となく知ってる政党名がある。「自民党」。何をしているのか、どんな政党なのか全く知らないけど、ずっと日本の政治を担ってきた政党なんだから、間違いないよね。だって、ヤバイ政党だったら、そもそも今の日本は終わってるはずなんだし。さっさと名前書いて、投票しちゃおう。わたしの一票がどこの誰かも知らない野党(立憲民主党?国民民主党?共産党?全部聞いたことないから怪しい人たちかも)に入っちゃったら、日本が危なくなっちゃうしね。こうやって国民の義務を果たさないとね!なんとか投票できてよかった~。

 こうやって、投票した一票によって、平和は少しずつむしばまれていく。メディアは、若者の政治離れという。同じ口で、若者の保守化という。政治離れと保守化は、少なくとも若者にとっては同じ現象の言い換えにすぎない。知らないということは、選べないということだ。選べないということは、(論理の飛躍はあるが現実的には)保守化するということなのだ。

 わたしたちは、政治を知れば知るほど、無力感にさいなまれる。政治を知らなければ知らないほど、消去法で選ばざるを得なくなる。どちらも行きつく先は保守化である。保守化の行き着く先は、独裁である。独裁は、わたしたちを更なる無力感にいざなう。わたしたちは、いま、どこまで進んでしまっているのだろうか。

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