宮地尚子・金井聡. (2020). 尊厳と暴力——公的領域・親密的領域・個的領域の三分法から考える. 加藤泰史 & 小島毅. (編), 尊厳と社会(下) (pp. 58–73). 法政大学出版局.

大学のメールボックスの中に極めて分厚い荷物が入っていて、辞書か何かかなと思って封を開けると、合わせて1000ページ近くある学術書だったので驚いた。書名は『尊厳と社会』というもので、どなたが送っていただいたのだろうと思ってパラパラめくると、たぶんこの先生からのご恵投だろうというあたりがついたので、勉強がてら読んでみる。結論から言うと、極めて勉強になった。

「尊厳と暴力」というタイトルの論考は、非常に明確な問題設定から始まる。曰く、尊厳を毀損するものとして暴力を捉え直してみようとのことである。なぜならば、暴力というのは、人間社会において常に当たり前に存在してきたために考察の対象から免れてきてしまっていたからである。たとえば、PTSDに苦しむ人びとは自らの症状を表現する言葉を口にすることができず(それは内的な抑圧もあるだろうし、社会的な抑圧もあるだろう)、またその支援に当たってきた著者たちもかれらの苦しみを十分に言い表す言葉が見つからないと悩む。このような、可視化されにくい暴力を、公的領域・親密的領域・個的領域の三分法という枠組みから捉え直そうというのが本稿のメインテーマである。

では、公的領域・親密的領域・個的領域とは何か。公的領域は分かりやすい。たとえば、会社であるとか学校であるとか、いわゆる「人前」の社会のことである。それにたいして、後者二つは、若干の注意が必要である。公的領域と対比されるものとして私的領域という区分があるが、本稿では、私的領域をさらに細かく区分して、親密的領域と個的領域というカテゴリーを用意する。以下定義について引用する。

親密的領域:「カップルや家など、恋愛や性愛、親愛や愛着によってつながった人間関係」(p.62)

個的領域:「自分のためだけの時間や空間を意味する」「自分があるがままでいられる場や、恐怖やストレスを癒し、活力を持って外に出かけていけるような、くつろげる休息の時間、他者からの評価や否定的視線から解放された時空間」(p.62)

このように、親密的領域と個的領域を分けてみると、DVに代表されるような暴力と、暴力によって支配されてしまうこと、そのため自らの言葉が失われてしまうことなどを極めて明快に説明することができる。以下のとおりである。

このように三分法で考えてみると、DVを「親密的領域における暴力と支配であり、それによって相手の個的領域を奪い、すべて親密的領域にしてしまうこと」ととらえなおすことができる。(p.62)

DVのような問題は、「親密的領域にひびが入っている」と早とちりしてしまいがちだが、決してそうではなく、むしろ親密的領域の全体化なのである。つまり、ここで具体的に論じられるようになるDVとは、家庭内で単に暴力をふるって相手を傷つけるということではなく、暴力によって相手の個的領域を簒奪し親密的領域において支配する行為のことであると理解できる。この理解は極めて重要である。なぜなら、この理解によって、加害者の支配行動に潜む二重の構造—暴力と暴力の正当化—に気づくことができるからである。加害者は暴力をふるい、被害者を支配する。ここでいう支配とは、個的領域が奪われることであった。個的領域が奪われ相手とのゆがんだ親密的領域の中でしか生きられなくなった被害者は、その暴力に対して反論する余地がなくなる。逃げられなくなる。安全地帯そのものがないし、そもそも安全地帯があったことさえ忘れ去られてしまう。そのため、暴力は、被害者によって消極的に正当化されてしまう。

したがって、そういった被害者を支援しようとするとき、公的領域を拡充するでも親密的領域を拡大させるのでもなく、ひとまずは個的領域を用意し、そこを豊かにしていくことが求められる。

個的領域において、被害者は、加害者による身体機能の管理から解放され、心身の自律性を回復する必要がある。個的領域とは、ささやかな抵抗の拠点であり、生存の拠点である。(p.71)

そして、本章の結部では、暴力によって奪われてしまう個的領域とは、「尊厳」と呼ばれるものに近いのではないかと示唆される。それは、生存の基盤でもあり、親密的領域や公的領域に足を踏み出していくときの安全基地でもある。ここもまた、極めて重要な指摘である。

さて、最後に、災害の場でこのような三分法は応用できるだろうと考えてみる。災害もまた、わたしたちから個的領域を奪う暴力であると言えそうだ。たとえば、プライバシーが守られない雑魚寝式の避難所・「被災者である」かどうかさえも罹災証明で行政的に決められてしまうことや、もともとのご近所づきあいを破壊する仮設住宅などは、まさに個的領域を奪いさる。さらにそのうえ、災害の場合は、親密的領域さえも奪い去る傾向があるように思う。上述の仮設住宅の例でいえば、いわゆるコミュニティの崩壊は、親密な地域のつながりを無くしてしまう。その結果として、孤独死になることも多い。本稿の枠組みで考えるのならば、災害とは、個的領域も親密的領域も奪い去り、生活のすべてを公的領域化するような暴力であるとひとまずは言えるかもしれない。災害ユートピアが訪れるというのは、社会秩序が崩壊した一種の自然状態に人間が置かれるからだ。また、災害後の混乱に乗じて政治が幅を利かせる現象(ショックドクトリン)も今や有名である。しかし、そこから時間が経過するにつれ、個的領域が回復していく。しかしながらその個的領域は、親密的領域無しの個的領域であり、いわば、孤立状態を生み出す。その最悪の結果として孤独死が生じる。ここまで考えると、災害とは、圧倒的な力で私的領域を破壊し、その後公的領域による支配と個的領域への閉じこもり(=親密的領域の喪失)を生むと言えそうだ。まあ、最後の部分は、災害そのものというよりも社会の問題に起因しそうだが。

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