本を読んでいると、さまざまな読み方をしたくなる。それが優れた書物であるならなおさらであるし、逆に言えば、多様な読みに開かれている本こそが優れているのだとも思う。
だから、著者が想像もしていない誤読というものもある。テキストをどう読んでもそうは読めないだろうという誤読もある。でも、そういった誤読も、読みの可能性を広げるという意味でよいことであるし、否定されるべきではないだろう。もちろん、「正しい読み方」というものもあるだろうが、それを著者をはじめとする誰かによって強制されてはいけないと思う。
そんなことを考えたのは、桜庭一樹さんの小説『少女を埋める』にまつわる騒動を知ったからだ。『少女を埋める』は桜庭さんが経験したことをもとに書いた私小説の味わいがあり、主人公(「冬子」)の名前こそ違えど、小説の舞台となっているのは桜庭さんの出身である鳥取県だし、桜庭さんの作品である『GOSICK』や『赤朽葉家の伝説』が主人公の著作として描かれている。本小説を書評家の鴻巣友季子さんは「ケア」の小説として読んだらしい。らしい、というのはその書評がオンライン上では朝日新聞の有料会員でないと読めないことになっており、直接読めていないからだ。そして、その書評内には、冬子の母が父(母からすれば夫)を介護中に虐待したのだと紹介されている。しかしながら、著者の桜庭さんは、このような「事実」は無いとして、書評の修正を求めている。ということのようだ。(詳しくは以下のまとめがわかりやすいかもしれない)
https://togetter.com/li/1765531
この小説がまったくの創作であったのなら、どんな牽強付会な読み方をしていても良いだろう。しかし、この議論において問題なのは、『少女を埋める』という小説が一種の私小説として書かれており、読む人が読めばモデルが誰なのか一発で分かる点にある。すなわち、書評で「虐待があった」と紹介してしまうことは、単なる読み間違いというテキスト上の問題で解決されず、「本当に」虐待があったという事実レベルでの誤認を生みうるという点に、この対立の核がある。(テキストをきちんと読めば介護中の虐待はなかったとしか読めないという意見や、あらすじと批評の区別に関する問題点とか、そもそも文芸批評の媒体自体に問題構造があって・・・というような話もあるのだが、ここでは立ち入らない)。
私が思うのは、本小説が私小説であることのナイーブさをどのように捉えるべきなのかということを考えておかないといけないということである。私小説として発表するということの覚悟をどのように持つべきなのか、そしてその覚悟を読者はどのように受け取るべきなのかということである。
先に断っておきたいのは、『少女を埋める』という小説には、著者である桜庭さんの配慮が微に入り細に入りなされているということである。父の看病(それは結果的には看取りの旅になってしまうのだが)のために鳥取に帰省した主人公の冬子は、鳥取に暮らす親戚たちとも会うのだが、そこで、ともすれば女性蔑視と受け取られかねない、というか文字だけ見れば明らかに差別的な発言(「女の子がりこうだと困る」みたいな)を聞いている。しかしながら、冬子は、そういった差別的な発言が、田舎の因習的な構造によってなされていること、またそういった発言もよくよく考えれば冬子のためを思ってなされていることを丁寧に記述する(小説全体のモチーフとして用いられる「人柱」が効いている)。それでもやはりそういった差別は社会的に許されるべきではないことも小説内で何度も繰り返されている。このバランスをとるためにどれだけの工夫がなされているのか。私には到底できないほどの配慮である。
また、小説の中で繰り返し述べられる「記憶の危うさ」についても、小説に深みを与えていると同時に、ここで書かれていることは著者である私の思い込みに過ぎない部分もあるというエクスキューズとして機能することもできて、小説内に登場している現実の人びとを傷つけないための安全機構が何重にも張り巡らされている。さらにさらに、意図して書き落としていると思われる箇所が何箇所もあり、その書き落としこそが本小説の主題を支えているのだから、すごい。書かないことによって、登場人物を守り、小説としての輪郭を描いているのである。
とはいえ、やはり、小説として世に出した以上、読者には誤読する自由はあり、そういった誤読に著者のみならず小説に登場させた人物までさらされてしまうことは避けられない。私が普段書いているエスノグラフィもまた、そういった意味で私小説と共通している。エスノグラフィに書かれるのは基本的には現実に起きたことである。だから、登場する人もみな実際に私が出会った人たちであるし、いくら匿名化していても、読む人が読めば、本人を特定できてしまう。
そういった文章の書き手として、私の意図で文章内に登場させてしまった人たちを、誤読から守りきる覚悟を持たねばならないと思った。それはものを書く人間としての最低限の倫理であると。
そう思ったのは、アメリカの社会学者であるアリス・ゴフマンについての論文(前川, 2017)を読んだからかもしれない。この論文では、アリス・ゴフマンの書いたエスノグラフィー『オン・ザ・ラン』についての内容およびその「場外乱闘」についてとてもよく整理されている。『オン・ザ・ラン』の舞台はフィラデルフィアの貧しい黒人街区「6番街」。そこにアリス・ゴフマンは、6年間住み込みながら、フィールドワークを行った。それは参与観察と呼ぶにはあまりにも現地での暮らしと一体化したものだった。6番街の若者と「デート」をしたり、ときには法律すれすれの行為もしていたらしい。また、6番街で生活をともにした長年の仲間チャックがギャングの抗争の結果銃殺されるといったこともあったとのことである。
彼女のエスノグラフィには、6番街を中心に行われた数々の違法行為が描かれているが、彼女は調査対象者の保護のため、その証拠となりうる日々の調査ノートをすべて焼却処分した。いわば、そこで描かれていることがどの程度事実なのか、どの程度戯画化されているのかを決定できなくした。もちろん、彼女の調査は、法律に違反している貧困街の黒人たちを告発するものではないし、そのことが伝わったからこそ、彼女は仲間として6番街に受け入れられたのだろう。しかし、エスノグラフィ中に描かれていることの「証拠」がなければ事実性は揺らぐ。『オン・ザ・ラン』というエスノグラフィがアリス・ゴフマンの想像によって書かれたフィクションに過ぎないという論駁を否定することはできない。そのテキストを裏付けるものが消失したことで、フィクションとノンフィクションが混ざりあってしまっているからである。
現実に存在する人を書くとき、そしてその文章が広まり、その文章を誤読する人が出てきたとき、その誤読の豊かさを活かしながら、しかし「事実は違う」と主張することはどこまで有効だろうか。「事実」を知っているのはあなたではなく私なのだからという主張は、解釈の多様性を奪うことになってしまう。一方で、テキスト上に書かれていることは文字化された時点で多かれ少なかれフィクションであると言ってしまうのも、「本当にあったこと」を軽視してしまう。事実とフィクションを切り分けて、「あなたはそのように読んだのですね。でも事実は違います」と言うことは、ともすれば、事実とフィクションをあえて混同させる私小説の面白みも失わせてしまうように思う。
なんともうまく解決できる方向性が見えていないので、結論めいたことは言えないのだが、少なくとも、ごく少数の読み方だけでとどまってしまわないほうが望ましいとは思う。いろんな誤読があっていい。そしてそれはもっとたくさんの誤読にまみれたらいい。その中にもしかしたら、偶然、的を射た読み方があるのかもしれない。
前川真行. (2017). 公正と信頼のあいだ : アリス・ゴフマンのケース. RI : Research Integrity Reports, 2, 14–38.