『ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家』(石川美子著, 2015)を読んだ。私自身、論文中にロラン・バルトの議論を用いたことがあり、彼の論考を読みはしたものの、彼の思想遍歴についてきちんと理解していなかった。本書は200ページあまりの比較的短い本でありながら、ロラン・バルトの思想のエッセンスに触れることができる良書であった。ここでは、私が特に重要と思った点を備忘録的にメモする。
意味の複数性から意味の潜在性へ(意味の中断)
ロラン・バルトは何よりも、あるモノの意味が一意に定められることに大いなる忌避を抱いていたようである。なぜならそこには専制的権威的で抑圧的な権力作用が働きうるからである。したがって彼は、意味の複数性を重視する。それはたとえば、一つの小説に多数の読み方があるように、意味を自由で開かれたものとする。ロラン・バルトの最も有名なテーゼの一つに「作者の死」がある。この概念もいわば、作者が狙ったもの以外の自由な読み方を許容しようというような意味合いで捉えても良いのだということがわかった(そもそもロラン・バルトは「作者の死」という概念をそれほど強く打ち出したわけでもないということはささやかな驚きだった。むしろ、フーコーの議論と(勝手に)並列されることで有名になってしまったようだ)。
「作者の死」というのは、卑近な例でいうと、小説の試験問題における読み取りの窮屈さを思えば理解しやすいかもしれない。たくさんあるはずの小説の読み方が、試験問題として出題された途端、ただ一つの「正答」に収束されてしまう。この窮屈さを乗り越えようとするとき、作者の意図に反する読み方もまたアリだよねという読者の自由さが必要となろう。このことがすなわち作者の死=読者の誕生であると私は理解した。
ここでのキーワードは、「意味の複数性」である。意味はつねに複数ある。それを唯ひとつに捨象してしまうことにこそ重大な過ちがあるはずである。
その後、バルトは、日本に目を向ける。そして、何度かの日本滞在を経て、俳句に着目する。俳句とは、まだ意味を帯びていない情景の描写である。ここには、さきほどの「意味の複数性」とは異なる形での、モノと意味の一対一対応への対抗がある。俳句において意味はまだ空虚である。そこにまだ意味は備わっていない。それゆえ、読み手それぞれの心象に寄り添うことができる。このようなことを「意味の潜在性」(本文中では「意味の中断」)と呼ぶこともできるだろう。
バルトはこのような俳句マインドを自らの創作にも活かそうとする。そうして彼は、断章という記述スタイルを確立する。できるだけランダムに並べられた断章は、その前後の繋がりが絶たれている。しかし、絶たれているからこそ読者はそこにあらゆるつながりを見出すことができる。それは、作者が意図していない意外なつながりもあるだろう。章ごとのつながりという、あるべきはずのものが断章形式によって剥奪されたとき、そこにはなかったはずのあらたな意味が生まれてくるのである。
喪と写真:そこにあるはずのものがそこにないこと
晩年のバルトの中心テーマは喪と写真だろう。前者は長年連れ添った最愛の母親の死に起因し、後者もまた亡き母の写真をもとに論が立てられていく。この2つのテーマはバルトにとって共通の軸があったはずである。それが「そこにあるはずのものがそこにないこと」である。
亡くなった人はこの世にいない。しかし、最愛の人であれば、まだこの世にいるかのように感ぜられる。しかし、振り返ってみてもそこにはいるはずがない。写真に写る人や物も、そこにはいない。まるでそこにいるかのような存在感があったとしても、そこにはいない。写真が示すのは、そこに写る人や物が「かつてそこにあった」ということのみである。そう考えれば、彼の写真論は、実質的に遺影論と言ってもいいのかもしれない。
そこにあるはずのものがそこにないこと。私はこのテーマの反転、すなわち、そこにいないからこそそこにあるかのように知覚される、ということを考えてみたい。いないからこそいる。これはたとえば森岡正博の脳死論で語られたような、脳死の人が生きていると死んでいるの間で揺れ動くさまに似ている。脳死の人の手の暖かさによって家族は、その人の存在を確かめることができる。しかし、もう動かないその体は、その人の不在を証明しているかのようである。被災地の写真は、まっさらな土地が移されているからこそ、そこにかつて街があったことをかえってありありと想起させる。
このような、不在であるがゆえに存在が知覚されるような状況を私は〈不在〉と呼んでいる。この概念は私なりのバルト読解から生まれたものである。