想起という特殊な知覚

森直久著『想起 過去に接近する方法』東京大学出版会 2022年

http://www.utp.or.jp/book/b606381.html

想起は脳内に貯蓄された記憶情報の検索ではない。まずはこのことを認めよう。コツは目の前のモノをつぶさに観察することである。つぶさに観察するというのは、自己の内面に目を向けずひたすら外界への知覚に専念するということである。

いま私の目の前にはテーブルの上におかれたグラスがある。中には冷たい麦茶が半分ほど入っている。これを見るとき、私は端的にそれを見ている。つまり、目の前にコップがあるなと認知して、その認知に従う形で知覚しているのではない。私たちがこういった場合に通常考えてしまうような、「物体→認知→知覚」というモデルは回りくどい。認知という脳内のブラックボックスを想定する必要はない。私たちが物体を知覚するとき、端的にそれを知覚しているのである。

こういう疑問が湧くかもしれない。眼の前のコップは「飲み物の容器としてのコップである」という判断はどのようにして生まれるのか。これこそ認知のはたらきではないかと。この点に関しては、アフォーダンスという優れた考え方があるのだが、ここでは詳述しない。

さて、目の前のコップの知覚に話を戻そう。この知覚論にもう一捻り加えてみよう。眼の前のコップはいま冷たい麦茶が半分ほど入っていると先ほど言った。しかし、たとえば、パソコン作業に熱中していて麦茶をすでにいくらか飲んでしまったことを忘れ、よく見ずにコップに手を伸ばしたとき、そのコップの軽さに驚くようなことはないだろうか。このとき、眼の前の麦茶が半分しか入っていないコップと、麦茶が並々入っているはずのコップが重ね合わされていると考えることができるだろう。この重ね合わせの状態が重要である。なぜならば、この重ね合わせこそが想起だからである。

本書において想起は、心理学者エドワード・リードの概念を用いて「自己の二重化」と表現される。より正確には、自己とは内面に記憶を有する存在ではないことを強調するために「環境/身体の二重化」という。二重化とは、環境/身体の重ね合わせのことである。半分麦茶のコップと並々麦茶のコップという環境が重ね合わされ、半分麦茶のコップを手に取る身体と並々麦茶のコップを手に取る身体が重ね合わされる。半分麦茶のコップを手にしたとき、私たちは「あれ、並々麦茶が入っていたはずなのになあ」と私たちは知覚する。これがまさに想起である。このように、二重化、あるいは重なり合いの知覚が想起である。

重なり合うということが知覚されるということはそこにズレがあるということでもある。私がよく見るテレビ番組の一つに「テレビ千鳥」がある。テレ朝の伝説的プロデューサー加持Pが千鳥の二人をフィーチャーして作ったゆるめの番組である。番組はたいていそれほど山場がなさそうなお題で街ブラロケをする(失礼!)。12月1日放送分の内容は、麻布十番のレストランを巡って要らなくなった食材を集め、それらを煮込みスープをつくるというものだった。Tverだと13分55秒からのシーンなのだが、麻布十番を歩いていくと大悟が「おっここ師匠のガールズバーや」と口にする。師匠、つまり志村けんさんとよく行ったガールズバーに近寄る。そしてガラス張りの店内を覗き込み、カウンター席の奥の方を指さしながら言う。

「いっつもあの一番奥、一番奥に師匠が座って、その手前にワシが座って飲んでた」

このとき大悟にはガールズバーで一緒に飲んでいたころの志村さんの姿と、彼のいない昼間のガールズバーの空いたカウンター席が重ね合わされて知覚されている。

その後大悟は志村さんとよく行っていた鉄板焼き屋さんを訪ねる(15分30秒頃~)。約2年ぶりの訪問とのことだ。ここから大悟の想起が溢れ出す。

「めちゃくちゃここで降りてた。タクシーで」「わしいっつもここやった。この個室やったなあ。なつかしい。でこの公園いっつも見ててん、ここから」「師匠と来たときは師匠がこっちでわしがそこ座ってたなあ」

思い出の個室で一服し、大悟は師匠のキープしたボトルを思い出す。ボトルを発見すると、ちょっとだけ飲むことにする。芋焼酎伊七郎をロックで飲む。その瞬間、とめどなく想起が押し寄せる。あのころと同じお店同じ部屋で同じ焼酎を飲む。変わったのは「師匠」がいないことだけだ。師匠の存在の有無が環境そして身体にズレを生み出す。そのズレによって、大悟は「師匠」を想起する。

本書内でなされている想起の定義の一つを引用しよう。想起とは「かつて身をおいた環境と接触した(行為した)身体が、今ここで想起している身体と同じ身体であることが発見されていく活動」(p.15)である。志村さんとお酒を飲み交わした身体が、まさに今ここでの身体と同じであることが発見されるとき想起が生じるのである。

環境/身体が二重化し、ズレが生じたとき、わたしたちは想起する。あるいは過去を知覚すると表現してもいいだろう。このとき、一旦立ち止まって脳内で過去の記憶を検索して・・・という機構を想定する必要はない。眼の前にいまはもうない過去が端的に知覚されるのである。

このような想起論はきわめて刺激的である。常識からかけ離れているようでありながら非常に正確に現実を説明しているように思われる。深めるべきテーマであると考えるので、今後、私が考えたいいくつかの論点を書いておきたい。ひとつはロラン・バルトの写真論、とくに私の言葉で言えば〈不在〉の写真(宮前, 2019)との関係である。〈不在〉の写真とは、そこに写っているはずのものが写っていない写真のことである。写っているはずのものが写っていないがゆえに、かえって写っているはずのものが強く知覚される。宮前(2019)では、志津川駅跡の写真を題材にしたが、そこには過去の志津川駅と、志津川駅の不在が重ね合わされて知覚されている。ロラン・バルトであれば、不在の写真には何らかの痕跡が残されていてそれこそがプンクトゥムを呼び起こすのがと言うのかもしれないが、私はむしろ不在であること=過去と現在のズレに注目したい。

もう一つは語りの伝承についてである。このような想起論では、目に見えない語りを受け継ぐということをどのように考えたらいいのだろうか。本書の読書会の際に著者の森先生が「語るということはその語りが含んだ新たな環境を作ることだ」という旨のことをビーバーのダムづくりに喩えていたのが印象的だ。語るということは意味の伝達ではなく、環境の構築なのである。そしてその環境と相即的に身体も構成される。「語り直し」は語りによる自己=身体/環境の再構築なのである。であるならば、語りの伝承とは、そのような語りが行われる環境/身体の伝承なのではないだろうか。パラフレーズするならば、その語る人と出会ったという経験を伝承することなのではないだろうか。拙著でも書いたが、「記憶の重み」論との関係も見いだせそうだ。

さらに、これは若干飛躍するのだが、当事者論との接続も考えてみたいトピックである。当事者を定義するのは難しい。しかし、上記の議論をふまえれば、当事者とは特定の環境と自己の重ね合わせが可能な身体ということができるのではないだろうか。たとえば災害の当事者というとき、その災害という環境と自己がズレることなく重ね合わすことができる身体のことを指している気がする。

こういったことを考えるにはリードはもとよりギブソンを読む必要がありそうだ。また平井靖史先生からはベルグソンとの類似が指摘された(『世界は時間でできている』読まねば!)。いろいろ勉強することが増えてうれしい。

宮前良平. (2019). 〈不在〉の写真を見る/撮る. 災害と共生, 3(1), 25–38.