弱さのアイロニー

ボランティアは不思議な行為だ。

大災害を報じるニュースを見て、足がすくむ思いがする。自分は被災していないのに、自分なんかでは被災した方々のつらさを分かち持つことはできないのに、それでも居ても立っても居られなくなる。

極論すればボランティアには何もできない。それでもボランティアに行く。「何もできない」という自己否定は、しかしながら、ささやかな希望でもある。被災地に行き、一日ボランティアをし、しかし、被災した家の片付けはまったく進んでいるように思えない。あと何週間何ヶ月、この家の人はこのつらい片付けに向き合わなければならないのだろう・・・。私は家に帰れば暖かい食事にありつけてしまう。申し訳ない気持ちになる。だけど、そうやって気分が塞いでいても、被災した方から一言「ありがとう。助かったよ」と言われる。助かったのはこっちですと言いかける。

ボランティアは何もできない。だからこそできることがある。このアイロニーこそがボランティアの本質ではないかと思う。

しかし、「ボランティアは何もできない」という表面上の意味だけを知ったかぶりして、「何もできないボランティアが現地に行くのは迷惑だ」と批判する声が増しているように思う。ボランティアのような何もできない素人は引っ込んで、自衛隊などの「プロ」に任せておけばよいという一見合理的な主張が、見た目の正しさに引きずられて賛意を得ていく。ボランティアのアイロニーは、被災地から遠く離れた正しらしさによって無かったことにされていく。

いまはボランティアが出る幕ではないという主張はたしかに正しいのかもしれない。しかし、そうこうしているうちに支援の網の目から漏れ、苦しむ人は見捨てられている。ボランティアには何もできない。何もできないからこそ、目の前の寒さに凍える人に手を差し伸べることはできるのだと思う。