桃太郎(深沢七郎風)

以下はChat GPTを使ってアレンジを加えた桃太郎の話だ。

私はエスノグラフィを書くことがあるのだが、できれば深沢七郎風に書きたいといつも思っている。その練習のためにAIに深沢七郎風に書かせてみた。

お題はなんでもよかった。およそ多くの日本人が知っているだろう桃太郎にすることで、ストーリーではなく、文体にフォーカスを当てやすいのではないかと思った。

「深沢七郎風に」とだけAIに注文すると、だいぶ微妙な仕上がりになるので、もっと人間に寄り添った感じでとか、文章の長短をいい感じに混ぜてとか、人間を見つめる暖かさとかなしみを溢れさせてとか、いろいろと注文をつけて完成させた。(ちなみに岡山弁らしき方言はAIが勝手に気を利かせてつけてきた)。

だからこれは深沢七郎の模写というよりも、私の理想の深沢七郎なのだ。

もしもいろいろと遊んでみたい方がいれば以下のURLからアクセスできるようにしたので、試してみてほしい。

https://chatgpt.com/g/g-684b784c23648191a05353f3da550ed4-orekasi-ushen-ze-qi-lang

桃太郎

むかし、ある村のはずれに、おじいさんとおばあさんが住んでいた。
山のかげで、風の通りがよく、夏はすずしくて、冬は早く日がかげる。
畑も田んぼもなかったが、野菜と芋とを育てて、ふたりで食べていた。

おじいさんは、山へしば刈りに行った。
腰が曲がっていたので、急な斜面では立ったまま眠ってしまうこともあった。
それでも、毎朝、草履をはいて出ていった。

おばあさんは、川へ洗濯に行った。
山の水が、石の間をつたって冷たかった。
指先がかじかむと、「ああ、生きとるなあ」と思うのだった。

ふたりとも、年をとっていたが、いちおう元気だった。
たまに隣の家から味噌をもらいにくる子どもを見ると、少し黙ってしまうことがあった。

ある日、おばあさんが川にしゃがんでいると、
上流から桃がひとつ、ふわりと流れてきた。

丸くて、大きくて、赤みがかっていた。
桃は、何も言わず、ただ流れてきた。

おばあさんはそれを、黙って見ていた。
手をのばすのが、少しためらわれた。
だが、誰もいなかったし、流れてしまえば、それっきりだった。

「もったいないけえの」
そう言って、おばあさんは桃をすくい上げた。

水が、袖までしみこんだ。
冷たさが、骨にしみた。

「じいさまが、好きじゃけえな」
と、小さくつぶやいて、桃を抱いて家へ帰った。

桃は、台所の木の盆の上でしずかに割れた。
中から赤ん坊が出てきたとき、おばあさんは叫ばなかった。
おじいさんは、その声を聞いて急いで帰ってきた。
ふたりで、湯を沸かして、赤ん坊の体を拭いた。
桃の香りが、まだ肌に残っていた。

名前は、桃太郎とつけた。
ふたりとも、特に相談はしなかったが、そう呼ぶのがしっくりきた。

桃太郎は、すくすく育った。
芋をよく食べ、よく笑った。
草履をぬいで裸足で走りまわり、魚を追いかけて川に飛び込んだ。
魚は取れなかったが、水をはねさせる音が、家の奥まで聞こえた。

おじいさんは、桃太郎と一緒に薪を割った。
おばあさんは、桃太郎と一緒に味噌をこねた。
だれも、むかしのことを話さなかった。
桃から生まれたことも、鬼がいるという話も。

けれどもある日、桃太郎は、土間に座ってぽつりと言った。
「鬼ヶ島に行こうと思う」

おじいさんは、煙草を手に取ったまま動かなかった。
おばあさんは、鍋の火を弱めた。

「そうかえ」
おじいさんが言った。

「なしてかの」
おばあさんが聞いた。

桃太郎は答えなかった。
でも、その背中を見て、おじいさんもおばあさんも、もう止められんと思った。

次の日、おばあさんは米ときびを炊いて、団子にした。
味噌を少し入れたから、やや塩気があった。
桃太郎の腰に、それをぶらさげた。

「食べきる前に帰ってくるような気がするけどのう」
おばあさんは笑った。
桃太郎も笑った。
笑いながら、目を伏せた。

おじいさんは、手拭いで包んだ刀を渡した。
それは昔、村に山賊が来たときに握ったものだった。

桃太郎は、何も言わず、頭を下げて家を出た。
ふたりは見送らなかった。
ただ、玄関の戸を開けたまま、土間にしゃがんで、湯を沸かしていた。

風が吹いた。
桃の木が、枝を揺らしていた。
葉のあいだから、夕陽がちらちら見えていた。

山をいくつか越えたころ、犬がいた。
耳がちぎれていた。
遠くから見て、桃太郎は声をかけた。

「団子がある。ついてくるか」

犬はしばらく桃太郎を見ていたが、やがて近づき、黙って後ろを歩いた。
団子はあげなかった。
それでも犬は、ついてきた。

その次の日、猿が木の上で騒いでいた。
桃太郎が見上げると、猿は団子の袋を見ていた。

「欲しいか」
桃太郎が聞くと、猿はうなずいた。
桃太郎は一つだけ渡した。
猿は食べてから、地面におりてきた。

「ついてくるのか」
と聞いたが、猿は答えなかった。
でも、木の枝を伝って、桃太郎の横に来た。

そのまた次の日、空にキジがいた。
桃太郎は立ち止まって見上げた。
キジは桃太郎の頭上をぐるりと回ったあと、前の岩にとまった。

桃太郎は団子を半分に割って、岩の上に置いた。
キジは、それをつついた。
それきり、桃太郎の少し前を飛ぶようになった。

犬と、猿と、キジ。
誰もしゃべらなかったが、誰もいなくならなかった。

夜、桃太郎は火を焚いた。
猿は近くの枝にぶらさがり、犬は地面に寝ていた。
キジは離れた木にとまっていたが、目は閉じていなかった。

団子は、もうあまり残っていなかった。
でも、足りなくなったら、そのときは分け合えばいいと思った。
黙っていても、そういうふうになっていた。

次の日、海が見えた。

船に乗ったのは、村の漁師が出した舟だった。
「鬼ヶ島に行きたい」と言うと、漁師は首をかしげたが、何も聞かずに漕いでくれた。

海は思っていたより静かだった。
桃太郎は舟のへりにもたれ、犬と猿は身を寄せていた。
キジは帆の上にとまっていた。

しばらくして、島が見えた。
岩がごつごつしていて、赤い屋根のようなものがいくつか見えた。
煙が出ていた。
鬼の家だろうか、鍋を焚いているのだろうか。

舟を降りて、浜を歩いた。
誰も出てこなかった。
犬が鼻を鳴らした。
猿は木をつかんで、上へ登った。
キジが低く鳴いた。

その声に、鬼が出てきた。

赤い顔をして、金棒を持っていたが、片足を引きずっていた。
目は大きかったが、何かをじっと見るような目ではなかった。

鬼は叫んだ。
何を言っていたかは、よく聞こえなかった。
桃太郎は、腰の刀を抜いた。

犬が吠えた。
猿が背中から飛びかかった。
キジが空から急降下した。

鬼は驚いたようだった。
転び、転がり、何かを叫び、
やがて、地面に伏した。

桃太郎はそれ以上、手を出さなかった。
鬼は、もう立ち上がろうとしなかった。
しばらくして、他の鬼たちが、奥から出てきた。

誰も戦おうとしなかった。
ある者は腰を抜かし、ある者は泣いていた。

桃太郎は、持っていた袋を開いた。
残っていた団子を、三つ取り出して置いた。

「これは置いていく。腹が減ったら食べてくれ」

鬼たちは何も言わなかった。

桃太郎は、犬と猿とキジと一緒に舟へ戻った。
舟はまだ浜にいた。漁師は網を直していた。

帰りの舟では、誰もしゃべらなかった。
海が青くて、空がまっすぐだった。

村に帰ったのは、夕方だった。
家の前には、火がともっていた。
おばあさんが、鍋のふたを開けていた。
おじいさんは、薪を割っていた。

桃太郎は黙って玄関に立った。
おばあさんが、ふと顔をあげた。

「おかえり」

それだけ言って、また鍋に目を戻した。

おじいさんは、薪の束をひとつ持ち上げて、
「団子は、足りたか」と言った。

桃太郎は、うなずいた。

犬はそのまま庭に寝ころび、猿は柿の木に登った。
キジは屋根の上で羽をとじた。

夕飯の匂いが、土間にひろがった。
その匂いのなかに、桃の香りが、まだ少しだけ残っていた。

2025年度になりました

2025年度になって所属は変わらないのですが、職位がひとつ上がりまして、准教授となりました。正式名称は福山市立大学都市経営学部准教授です。何も考えずに去年大量に作った名刺を全部作り変えないといけないです・・・。

年度末にショックなことがありました。私が3年間委員を務めていた福山市まちづくりサポートセンターの事業者が公募の結果、交代することになりました。これまでたくさんお世話になったスタッフのみなさんがもう「まちサポ」ではなくなるのかと驚くとともに、3月25日に事業者の変更を決定して3月31日にはまちサポを明け渡さないといけないという暴力的なスケジュールに胸が痛いです。まちサポのスタッフのみなさんは福山に対話の文化を根付かせてくれました。この根が枯れることのないように、大きく幹をつけ、花や実がなるように祈っています。そして、まちづくりという極めて長いスパンで取り組むべきことをたった3年の任期で首をすげ替えてしまうようなやり方が見直されることを強く望みます。

さて、今年度は日本質的心理学会の編集幹事長を務めることになりました。編集幹事長の最大のしごとは、査読委員の先生に「査読遅れていますよ」というメールを送ることです。宮前からメールが来たら至急お返事くださりますようよろしくお願いします>関係各位

また、日本質的心理学会の次回大会の準備・実行委員としてもすでに半年ほど動いています。来月あたりにはHPが公開されるのではないかな・・・と思います。ぜひみなさん質心大会に広島にお越しください。

2025年度から3年間の計画で、科研の基盤Cに採用されました。「よそ者が繋ぐ復興の力:過疎化地域における関係人口とコミュニティ再生の理論構築」というタイトルで、愛媛県西予市野村町を舞台に関係人口が復興にどのように寄与できるのかということを、これまで取り組んできたNEOのむらという一般社団法人での様々なネットワークをもとに考えていきたいと思っています。また、野村の酒文化である「サシアイ」が地域のネットワークにどのような影響を与えているのか、いわば「飲みュニケーション」研究も進めていきたいと思います。時代の流れに逆行しているようですが、飲み会の力は侮れないこともありますよね。

他にも、写真洗浄のことはそろそろまとめないとと思っていますし、福山でスナックの研究を進めていければと思っていますし、うちの大学は保育者養成系のコースもあるのでそういった研究も分担して進めていく予定です。防災の研究も進めています。

今年度もいろいろなところで多くの方にお世話になります。今年度もどうぞよろしくお願いします!

弱さのアイロニー

ボランティアは不思議な行為だ。

大災害を報じるニュースを見て、足がすくむ思いがする。自分は被災していないのに、自分なんかでは被災した方々のつらさを分かち持つことはできないのに、それでも居ても立っても居られなくなる。

極論すればボランティアには何もできない。それでもボランティアに行く。「何もできない」という自己否定は、しかしながら、ささやかな希望でもある。被災地に行き、一日ボランティアをし、しかし、被災した家の片付けはまったく進んでいるように思えない。あと何週間何ヶ月、この家の人はこのつらい片付けに向き合わなければならないのだろう・・・。私は家に帰れば暖かい食事にありつけてしまう。申し訳ない気持ちになる。だけど、そうやって気分が塞いでいても、被災した方から一言「ありがとう。助かったよ」と言われる。助かったのはこっちですと言いかける。

ボランティアは何もできない。だからこそできることがある。このアイロニーこそがボランティアの本質ではないかと思う。

しかし、「ボランティアは何もできない」という表面上の意味だけを知ったかぶりして、「何もできないボランティアが現地に行くのは迷惑だ」と批判する声が増しているように思う。ボランティアのような何もできない素人は引っ込んで、自衛隊などの「プロ」に任せておけばよいという一見合理的な主張が、見た目の正しさに引きずられて賛意を得ていく。ボランティアのアイロニーは、被災地から遠く離れた正しらしさによって無かったことにされていく。

いまはボランティアが出る幕ではないという主張はたしかに正しいのかもしれない。しかし、そうこうしているうちに支援の網の目から漏れ、苦しむ人は見捨てられている。ボランティアには何もできない。何もできないからこそ、目の前の寒さに凍える人に手を差し伸べることはできるのだと思う。

日本質的心理学会の優秀論文賞を受賞しました!

2022年3月に刊行された質的心理学研究第21巻に掲載の「実践としてのチームエスノグラフィ:2016年熊本地震のフィールドワークをもとに」(置塩 ひかる・王 文潔・佐々木 美和・大門 大朗・稲場 圭信・渥美 公秀と共著)が日本質的心理学会の優秀論文賞を受賞しました!

質的心理学会の優秀論文賞は毎回オリジナルの受賞名が付与されることになっていまして、本論文は「優秀フィールド実践記述革新論文賞」となりました!

この論文は、熊本地震のときのフィールドワークと論文中では触れられませんでしたが大阪北部地震のときのフィールドワークがもとになって書かれています。人類学などのフィールドワークは単独で行われることが多いのですが、災害救援となると人手が足りないことも多く、大人数でボランティアに行く機会が増えます。そういった、複数人で現場をうろうろすることを一つの論文としてまとめられないか、そしてそうやって書くことを通じて「チームエスノグラフィ」の可能性をひろげられないか・・・と考えて書いた論文です。

なので、質的心理学研究の中でも最も共著者数が多い(7人)論文となりました。たくさんの仲間と議論しながら、ときに励まされながら書いた論文なので、賞をいただけて感動もひとしおです。そして、なによりも現地のみなさんのおかげで書いた論文です。「チーム」とは研究者集団だけではない、というのが論文で書いた「サビ」の部分でした。

熊本地震のときに一緒にボランティアした同期が書いた本です。「チームエスノグラフィ論文」の別視点です。こちらもあわせて読んでもらえると嬉しいです。

のだむら映画祭

1年前に関西学院大学復興制度研究所が発行しているニュースレターに以下のコラムを載せてもらった。出典を明記すれば転載OKとのことだったので、載せてみようかと思う。

 岩手県九戸郡野田村は、岩手県の沿岸北部に位置する人口4,000人ほどの小さな村である。豊かな海に面しており、年間を通じて肉厚なホタテがとれ、秋になれば多くの鮭が下安家川を遡上する。村の東部は雄大な山々が聳え、村内最高峰の和佐羅比山からは、北三陸のリアス式海岸が一望できる。

 そんな自然豊かな野田村であるが、村内には映画館が一つもない。映画を観るためには高速道路に乗って1時間半ほど運転しなければならない。もちろん、オンラインで映画を観ることはできるが、「映画館」という体験はますます得難いものとなっている。

 ここ数年、野田村を舞台、あるいはロケ地とした映画が立て続けに公開された。1つは中野量太監督の『浅田家!』、もう一つは中川龍太郎監督の『やがて海へ届く』である。どちらも全国公開の映画である。しかし、全国で公開されても映画館がなければ肝心の野田村では観ることができない。

そういった中、役場の方の尽力で、上記2作の上映会が2022年9月17日18日に行われた。野外にスクリーンを設置し、夜闇の中、波の音を聞きながらの上映会は昨年から始まり、今年は「のだむら星空映画祭」と名付けられた(今年は残念ながら強風のため屋内での上映となった)。中野監督・中川監督に加え、両映画のプロデューサーである小川真司さん、そして『浅田家!』のモデルとなった写真家浅田政志さんも来てくださった。両監督に話を聞くと、震災のことを描く上での葛藤があり、また、それを被災地の方々にどのように受け止めてもらえるかという点で大いに緊張したそうだ。

震災のことを真摯に描いた映画が被災地に届けられることはとても素晴らしいことだと思う。野田村の小田村長は言う。野外上映会を行う場所は、今は公園だが、昔は多くの家々があった。そこには野田の人びとの生活の営みがあった。そのことを忘れないでほしい、と。映画に描かれる震災を通じて、映画では描ききれない、震災前の日常を透かし見ることができるかもしれない。そんな映画祭が永く続きますように。

FUKKOU Vol.49(関西学院大学復興制度研究所, 2022)

今年は今年で9月30日に野田村で映画上映会があった。今年は『すずめの戸締まり』が選定され、権利の関係で体育館内での上映会となった。『すずめの戸締まり』は私はすでに映画館で一回、飛行機で一回見ているし、これを機に小説版も読み始めたので、細かいセリフまでけっこう覚えてしまったのだが、それでも野田村で観る『すずめの戸締まり』はまた思うところがあった。

東日本大震災を題材にした映画をその被災地で上映するということは、フィクションをフィクションのまま見ることを阻害するような引力がはたらく。でも、僕は、すぐれた物語は虚構であるからこそ現実を癒やすことができるのではないかとも思う。何かを描くことで描かれないものが浮かび上がるのだから。

当日は被災写真返却お茶会も行い、2枚の返却があった。震災から12年半が経過してもまだ写真を待っているひとがいる。『浅田家!』の後日談的な現実はまだ続いている。

真備から福井圭一さんにお越しいただきました!東日本大震災のときのご自身のお話から真備での洗浄活動のお話までじっくり伺いました。浅田さんとは約4年ぶりの再会とのこと。チーム北リアス写真班にとってとても良い時間でした。

これは浅田家!のポスターのニノになりきる浅田さん。浅田さん役のニノになりきる浅田さんという若干ややこしめの状況。

日常記憶地図@双葉町(質的心理学会企画)に参加して

福島県の浜通り相双地区にある双葉町は、震災前は7000人ほどの人口の町だった。南部に隣接する大熊町にまたがって東京電力福島第一原発があり、東日本大震災が起きた翌日の3月12日には全町避難がなされた。町民の定住が許可されたのが、2022年。つまり10年以上もの間、町民は一時帰宅以外には生まれ育った町に滞在することはほとんどできなかった。県内のみならず、全国に町民は避難した。役場機能も町外へ移転し、埼玉県加須市やいわき市で行政業務を行っていた(ちなみに今も双葉町役場いわき支所は残っている)。現在双葉町で生活をしているのは約100名ほど。家族を町外に残し単身赴任されている方も多い。震災を契機に移住者も多く、100人のうちの6~7割は移住者なのではないかとのことだった。役場職員も新しく採用した若手は、9割方町外出身者のようだ。また、町内には小学校をはじめ学校がない。(ふたば未来学園は広野町にある)

8月17日に日本質的心理学会が主催で、双葉町で日常記憶地図を行ってみようという企画が行われた。日常記憶地図とは、デザイナーのサトウアヤコさんが発案した、地図をもとに話をし、相手の話を聞き、共有する手法である。さまざまなやり方はあるが、たとえば小学校高学年ごろの生活世界の地図を用意し、そこに家や学校やよく行った場所などをプロットし、よく通った道を線で引き、それをもとに日常の記憶を想起する。私自身、サトウさんの手引きで日常記憶地図を体験したことがあるのだが、いままで誰かに話したことないような些細な出来事まで想起できて、非常に心地よかった。

これを双葉町でやるというのが、今回の企画の趣旨である。双葉町は、10年以上もの間、いわゆる復興から取り残された町である。町のいたるところに解体を待つ民家が残されている。町のいたるところに崩壊したままの建物が残されている。空き地となった場所にかつては何があったのか、震災前を知らない者には想像さえすることができない。それは震災後に新しく採用された役場若手職員も同様のようだ。なので、今回は、双葉出身の役場ベテラン職員が日常記憶地図を通して、かつての双葉町の様子を若手職員に話すということを主な目的とした。

17日の日常記憶地図WSで私は、長塚出身の方のお話をうかがった。その方は、長塚の商店街の出身で、すべて徒歩圏内の小学校中学校高校と地元の学校に通い、東京の大学を卒業後、双葉に戻ってこられた方である。地図はもともとは道路地図を用意してもらっていたのだが、役場の方の機転で住宅地図も用意してもらった。そのことが良かったのかもしれない。WSが始まると、「〇〇さんのところで~~」というような固有名と結びついた記憶が数々と語られた。また、地図の中の道を目で追いながら、「ここに行ってここに行ってその帰りにここに寄って~~~」のような地図上の道に沿った想起もなされていた。このあたりは、森直久著『想起 過去に接近する方法』に紹介されているナビゲーション実験との相似を感じた。地図もなく「昔の双葉の様子を教えてください」というインタビューではきっと語られない些細な(であるがゆえに重要な)日常の記憶が溢れ出ていたように思う。

翌18日は、前日お話していただいた方とともにまち歩きを行った。私には空き地にしか見えないところを指差し、「ここの商店は酒屋さんなんだけど、ラーメンがすごく美味しくて」と話してくださる。「ここには〇〇があった」というような、過去形の語りではなく、まさにいまそこにそれが見えているかのような現在形の語りであった。写真で撮ってしまえば、何もない空き地であっても、かつてを知る人にとっては、そこは空き地ではなく、〇〇商店とか駄菓子屋さんとか貸本屋とか中学校の場所なのだ。環境が二重化しているような感覚だった。たとえばVRなどで昔の町並みを再現しましたというやり方ではきっと想起されないような語りがあったように思う。

私は、こういった語りを聞いて、なにか双葉の過去を知れたという知的好奇心よりも、いまはない過去のさまざまな証を分け持つことで、それをせめて記憶からは消去させない責任の感覚のようなものを感じている。誰もの記憶からも消え去ったとき、それはほんとうにこの世から姿を消すことになるのだろう。だから、記憶を分け持つことの重要性を感じた。

この取り組みは、11月に開催される質的心理学会大会で報告される予定となっているようだ。どういった議論になるのか楽しみだ。

黒潮町防災ツーリズムの特設サイトがオープンしました!

僕のゼミでもお世話になっている高知県黒潮町の防災ツーリズムの特設サイトがオープンしました。

黒潮町は南海トラフ大地震で最大津波高34mという想定がなされています。しかし、その一方で黒潮町は海からの恵みをとても上手に活用しています。

自然をただ怖れるでも恵みを享受するだけでもなく、自然とうまく付き合うための秘訣が黒潮町にはあります。

ぜひ関心のある方は上記HPをご覧になってみてください!

想起という特殊な知覚

森直久著『想起 過去に接近する方法』東京大学出版会 2022年

http://www.utp.or.jp/book/b606381.html

想起は脳内に貯蓄された記憶情報の検索ではない。まずはこのことを認めよう。コツは目の前のモノをつぶさに観察することである。つぶさに観察するというのは、自己の内面に目を向けずひたすら外界への知覚に専念するということである。

いま私の目の前にはテーブルの上におかれたグラスがある。中には冷たい麦茶が半分ほど入っている。これを見るとき、私は端的にそれを見ている。つまり、目の前にコップがあるなと認知して、その認知に従う形で知覚しているのではない。私たちがこういった場合に通常考えてしまうような、「物体→認知→知覚」というモデルは回りくどい。認知という脳内のブラックボックスを想定する必要はない。私たちが物体を知覚するとき、端的にそれを知覚しているのである。

こういう疑問が湧くかもしれない。眼の前のコップは「飲み物の容器としてのコップである」という判断はどのようにして生まれるのか。これこそ認知のはたらきではないかと。この点に関しては、アフォーダンスという優れた考え方があるのだが、ここでは詳述しない。

さて、目の前のコップの知覚に話を戻そう。この知覚論にもう一捻り加えてみよう。眼の前のコップはいま冷たい麦茶が半分ほど入っていると先ほど言った。しかし、たとえば、パソコン作業に熱中していて麦茶をすでにいくらか飲んでしまったことを忘れ、よく見ずにコップに手を伸ばしたとき、そのコップの軽さに驚くようなことはないだろうか。このとき、眼の前の麦茶が半分しか入っていないコップと、麦茶が並々入っているはずのコップが重ね合わされていると考えることができるだろう。この重ね合わせの状態が重要である。なぜならば、この重ね合わせこそが想起だからである。

本書において想起は、心理学者エドワード・リードの概念を用いて「自己の二重化」と表現される。より正確には、自己とは内面に記憶を有する存在ではないことを強調するために「環境/身体の二重化」という。二重化とは、環境/身体の重ね合わせのことである。半分麦茶のコップと並々麦茶のコップという環境が重ね合わされ、半分麦茶のコップを手に取る身体と並々麦茶のコップを手に取る身体が重ね合わされる。半分麦茶のコップを手にしたとき、私たちは「あれ、並々麦茶が入っていたはずなのになあ」と私たちは知覚する。これがまさに想起である。このように、二重化、あるいは重なり合いの知覚が想起である。

重なり合うということが知覚されるということはそこにズレがあるということでもある。私がよく見るテレビ番組の一つに「テレビ千鳥」がある。テレ朝の伝説的プロデューサー加持Pが千鳥の二人をフィーチャーして作ったゆるめの番組である。番組はたいていそれほど山場がなさそうなお題で街ブラロケをする(失礼!)。12月1日放送分の内容は、麻布十番のレストランを巡って要らなくなった食材を集め、それらを煮込みスープをつくるというものだった。Tverだと13分55秒からのシーンなのだが、麻布十番を歩いていくと大悟が「おっここ師匠のガールズバーや」と口にする。師匠、つまり志村けんさんとよく行ったガールズバーに近寄る。そしてガラス張りの店内を覗き込み、カウンター席の奥の方を指さしながら言う。

「いっつもあの一番奥、一番奥に師匠が座って、その手前にワシが座って飲んでた」

このとき大悟にはガールズバーで一緒に飲んでいたころの志村さんの姿と、彼のいない昼間のガールズバーの空いたカウンター席が重ね合わされて知覚されている。

その後大悟は志村さんとよく行っていた鉄板焼き屋さんを訪ねる(15分30秒頃~)。約2年ぶりの訪問とのことだ。ここから大悟の想起が溢れ出す。

「めちゃくちゃここで降りてた。タクシーで」「わしいっつもここやった。この個室やったなあ。なつかしい。でこの公園いっつも見ててん、ここから」「師匠と来たときは師匠がこっちでわしがそこ座ってたなあ」

思い出の個室で一服し、大悟は師匠のキープしたボトルを思い出す。ボトルを発見すると、ちょっとだけ飲むことにする。芋焼酎伊七郎をロックで飲む。その瞬間、とめどなく想起が押し寄せる。あのころと同じお店同じ部屋で同じ焼酎を飲む。変わったのは「師匠」がいないことだけだ。師匠の存在の有無が環境そして身体にズレを生み出す。そのズレによって、大悟は「師匠」を想起する。

本書内でなされている想起の定義の一つを引用しよう。想起とは「かつて身をおいた環境と接触した(行為した)身体が、今ここで想起している身体と同じ身体であることが発見されていく活動」(p.15)である。志村さんとお酒を飲み交わした身体が、まさに今ここでの身体と同じであることが発見されるとき想起が生じるのである。

環境/身体が二重化し、ズレが生じたとき、わたしたちは想起する。あるいは過去を知覚すると表現してもいいだろう。このとき、一旦立ち止まって脳内で過去の記憶を検索して・・・という機構を想定する必要はない。眼の前にいまはもうない過去が端的に知覚されるのである。

このような想起論はきわめて刺激的である。常識からかけ離れているようでありながら非常に正確に現実を説明しているように思われる。深めるべきテーマであると考えるので、今後、私が考えたいいくつかの論点を書いておきたい。ひとつはロラン・バルトの写真論、とくに私の言葉で言えば〈不在〉の写真(宮前, 2019)との関係である。〈不在〉の写真とは、そこに写っているはずのものが写っていない写真のことである。写っているはずのものが写っていないがゆえに、かえって写っているはずのものが強く知覚される。宮前(2019)では、志津川駅跡の写真を題材にしたが、そこには過去の志津川駅と、志津川駅の不在が重ね合わされて知覚されている。ロラン・バルトであれば、不在の写真には何らかの痕跡が残されていてそれこそがプンクトゥムを呼び起こすのがと言うのかもしれないが、私はむしろ不在であること=過去と現在のズレに注目したい。

もう一つは語りの伝承についてである。このような想起論では、目に見えない語りを受け継ぐということをどのように考えたらいいのだろうか。本書の読書会の際に著者の森先生が「語るということはその語りが含んだ新たな環境を作ることだ」という旨のことをビーバーのダムづくりに喩えていたのが印象的だ。語るということは意味の伝達ではなく、環境の構築なのである。そしてその環境と相即的に身体も構成される。「語り直し」は語りによる自己=身体/環境の再構築なのである。であるならば、語りの伝承とは、そのような語りが行われる環境/身体の伝承なのではないだろうか。パラフレーズするならば、その語る人と出会ったという経験を伝承することなのではないだろうか。拙著でも書いたが、「記憶の重み」論との関係も見いだせそうだ。

さらに、これは若干飛躍するのだが、当事者論との接続も考えてみたいトピックである。当事者を定義するのは難しい。しかし、上記の議論をふまえれば、当事者とは特定の環境と自己の重ね合わせが可能な身体ということができるのではないだろうか。たとえば災害の当事者というとき、その災害という環境と自己がズレることなく重ね合わすことができる身体のことを指している気がする。

こういったことを考えるにはリードはもとよりギブソンを読む必要がありそうだ。また平井靖史先生からはベルグソンとの類似が指摘された(『世界は時間でできている』読まねば!)。いろいろ勉強することが増えてうれしい。

宮前良平. (2019). 〈不在〉の写真を見る/撮る. 災害と共生, 3(1), 25–38.

ロラン・バルトについての簡単なメモ

『ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家』(石川美子著, 2015)を読んだ。私自身、論文中にロラン・バルトの議論を用いたことがあり、彼の論考を読みはしたものの、彼の思想遍歴についてきちんと理解していなかった。本書は200ページあまりの比較的短い本でありながら、ロラン・バルトの思想のエッセンスに触れることができる良書であった。ここでは、私が特に重要と思った点を備忘録的にメモする。

意味の複数性から意味の潜在性へ(意味の中断)

ロラン・バルトは何よりも、あるモノの意味が一意に定められることに大いなる忌避を抱いていたようである。なぜならそこには専制的権威的で抑圧的な権力作用が働きうるからである。したがって彼は、意味の複数性を重視する。それはたとえば、一つの小説に多数の読み方があるように、意味を自由で開かれたものとする。ロラン・バルトの最も有名なテーゼの一つに「作者の死」がある。この概念もいわば、作者が狙ったもの以外の自由な読み方を許容しようというような意味合いで捉えても良いのだということがわかった(そもそもロラン・バルトは「作者の死」という概念をそれほど強く打ち出したわけでもないということはささやかな驚きだった。むしろ、フーコーの議論と(勝手に)並列されることで有名になってしまったようだ)。

「作者の死」というのは、卑近な例でいうと、小説の試験問題における読み取りの窮屈さを思えば理解しやすいかもしれない。たくさんあるはずの小説の読み方が、試験問題として出題された途端、ただ一つの「正答」に収束されてしまう。この窮屈さを乗り越えようとするとき、作者の意図に反する読み方もまたアリだよねという読者の自由さが必要となろう。このことがすなわち作者の死=読者の誕生であると私は理解した。

ここでのキーワードは、「意味の複数性」である。意味はつねに複数ある。それを唯ひとつに捨象してしまうことにこそ重大な過ちがあるはずである。

その後、バルトは、日本に目を向ける。そして、何度かの日本滞在を経て、俳句に着目する。俳句とは、まだ意味を帯びていない情景の描写である。ここには、さきほどの「意味の複数性」とは異なる形での、モノと意味の一対一対応への対抗がある。俳句において意味はまだ空虚である。そこにまだ意味は備わっていない。それゆえ、読み手それぞれの心象に寄り添うことができる。このようなことを「意味の潜在性」(本文中では「意味の中断」)と呼ぶこともできるだろう。

バルトはこのような俳句マインドを自らの創作にも活かそうとする。そうして彼は、断章という記述スタイルを確立する。できるだけランダムに並べられた断章は、その前後の繋がりが絶たれている。しかし、絶たれているからこそ読者はそこにあらゆるつながりを見出すことができる。それは、作者が意図していない意外なつながりもあるだろう。章ごとのつながりという、あるべきはずのものが断章形式によって剥奪されたとき、そこにはなかったはずのあらたな意味が生まれてくるのである。

喪と写真:そこにあるはずのものがそこにないこと

晩年のバルトの中心テーマは喪と写真だろう。前者は長年連れ添った最愛の母親の死に起因し、後者もまた亡き母の写真をもとに論が立てられていく。この2つのテーマはバルトにとって共通の軸があったはずである。それが「そこにあるはずのものがそこにないこと」である。

亡くなった人はこの世にいない。しかし、最愛の人であれば、まだこの世にいるかのように感ぜられる。しかし、振り返ってみてもそこにはいるはずがない。写真に写る人や物も、そこにはいない。まるでそこにいるかのような存在感があったとしても、そこにはいない。写真が示すのは、そこに写る人や物が「かつてそこにあった」ということのみである。そう考えれば、彼の写真論は、実質的に遺影論と言ってもいいのかもしれない。

そこにあるはずのものがそこにないこと。私はこのテーマの反転、すなわち、そこにいないからこそそこにあるかのように知覚される、ということを考えてみたい。いないからこそいる。これはたとえば森岡正博の脳死論で語られたような、脳死の人が生きていると死んでいるの間で揺れ動くさまに似ている。脳死の人の手の暖かさによって家族は、その人の存在を確かめることができる。しかし、もう動かないその体は、その人の不在を証明しているかのようである。被災地の写真は、まっさらな土地が移されているからこそ、そこにかつて街があったことをかえってありありと想起させる。

このような、不在であるがゆえに存在が知覚されるような状況を私は〈不在〉と呼んでいる。この概念は私なりのバルト読解から生まれたものである。

おすすめ

水に濡れた写真をお持ちの方へ

【追記】2023年6月に発生した水害からの一刻も早い復興を祈っています。私にできることを少しでもしたいという思いから以下再掲します。

福山市立大学で教員をしています宮前良平と申します。

私は東日本大震災の被災地である岩手県の野田村というところで津波で流出した写真の返却活動を行ってきました。また、その後、いくつかの場所で写真洗浄の方法を学んできました。被災された方からの写真をお預かりし、洗浄する活動もしてきました。

もしも、このページをご覧の方やそのお知り合いの方に被災して写真が濡れてしまったという方がいらっしゃいましたら、以下の画像および動画をご覧いただければと思います。写真の応急処置についてまとめられています。どちらも被災地で活動してきた私の友人が作成したものです。

写真の洗浄に関してご質問がありましたら宮前(r-miyamae@fcu.ac.jp)までご連絡ください。

私たちの手で大事なお写真を洗浄することもできるかもしれません。少しでもお力になれれば幸いです。

(22/09/24古いバージョンのチラシを掲載してしまっていたので最新版に差し替えました)

被災写真救済ネットワークさんのHPに詳しい洗浄方法など充実していますので、ぜひ参考にしてください。上記のチラシは被災写真救済ネットワークさんからお貸しいただいています。

以下の動画は、神戸市を中心に活動しているおたいさまプロジェクトさんの動画です。こちらもわかりやすく洗浄方法について解説されています。

「チームエスノグラフィ論文」が載りました

日本質的心理学会が刊行している『質的心理学研究』の第21号に私を第一著者とした論文が載りました!ただ,学会員でないとまだ読めないみたいです。たぶん1年くらいで一般公開されるはずです・・・!

タイトルは「実践としてのチームエスノグラフィ」です。ふつうエスノグラフィは一人で調査し,一人で書き上げるものなのですが,被災地に救援に行くときは,複数人で行くことがあり,そこで起きたことをチームとしてまとめあげることについて書きました。

こうやって書くと,チームでエスノグラフィを書くほうが内容も豊かになるし,事実確認(というか,いわゆる「裏とり」)もしやすくなるんじゃないの?って思われる方もいるかもしれませんが,実際はそんなに簡単なものではなく,複数人で書くからこそ見える事実が異なってしまい,結局のところ何が「事実」なのかわからなくなってしまうという事態に陥ってしまいまいがちです。この,複数の視点が乱立することで,事実が同定できなくなってしまうということを,黒澤明監督の映画『羅生門』にちなんで「羅生門問題」とか「羅生門効果」と言います。実際,チームエスノグラフィは結構書きにくいので,これまでほとんど研究成果がありませんでした。

この論文では,チームエスノグラフィにつきものの羅生門問題を,「なぜ同じものを見ているのに別々のように見えてしまうのか」という形ではなく,「なぜ別々の記述をしているのに同じものを見ていると信じてしまうのか」と問いを反転させることで,羅生門問題を新たな問いに気づくためのステップとして捉え直しました(この部分は矢守克也先生の議論を大いに参考にしています)。そうやって考えれば,チームエスノグラフィは気づかれざる前提に気づき,新たな実践を駆動させてくれる手法でもあるのです。

もうひとつ,この論文は熊本地震の被災地である益城町でぼくが出会った方々への恩返しのつもりで書きました。どこの誰かもわからない大阪から来た何人もの学生を,片付けなどで大変な時期にも関わらず,優しく受け入れてくれたみなさんがいたからこそ書けた論文です。ほんとうにありがとうございます。

福山市立大学都市経営学部に着任しました!

2022年4月1日付けで福山市立大学都市経営学部に講師として着任しました。任期は無しです。「しっかり腰を据えて研究に打ち込んでください」とありがたいお言葉をいただきました。

「都市」「経営」どちらも自分には無縁のワードだと思っていました。僕がよく通っている場所は農村部と言ったほうがふさわしいところですし,そんな地域が僕は好きなのです。被災地でのボランティア活動は,全く非経営的なものです。そう思えば,自分にはむしろ都市経営というよりも「農村」「非経営」のほうが似合っているなと思います。そんな感じで変わらず実践に研究に教育に打ち込んでいきたいと思います!