のだむら映画祭

1年前に関西学院大学復興制度研究所が発行しているニュースレターに以下のコラムを載せてもらった。出典を明記すれば転載OKとのことだったので、載せてみようかと思う。

 岩手県九戸郡野田村は、岩手県の沿岸北部に位置する人口4,000人ほどの小さな村である。豊かな海に面しており、年間を通じて肉厚なホタテがとれ、秋になれば多くの鮭が下安家川を遡上する。村の東部は雄大な山々が聳え、村内最高峰の和佐羅比山からは、北三陸のリアス式海岸が一望できる。

 そんな自然豊かな野田村であるが、村内には映画館が一つもない。映画を観るためには高速道路に乗って1時間半ほど運転しなければならない。もちろん、オンラインで映画を観ることはできるが、「映画館」という体験はますます得難いものとなっている。

 ここ数年、野田村を舞台、あるいはロケ地とした映画が立て続けに公開された。1つは中野量太監督の『浅田家!』、もう一つは中川龍太郎監督の『やがて海へ届く』である。どちらも全国公開の映画である。しかし、全国で公開されても映画館がなければ肝心の野田村では観ることができない。

そういった中、役場の方の尽力で、上記2作の上映会が2022年9月17日18日に行われた。野外にスクリーンを設置し、夜闇の中、波の音を聞きながらの上映会は昨年から始まり、今年は「のだむら星空映画祭」と名付けられた(今年は残念ながら強風のため屋内での上映となった)。中野監督・中川監督に加え、両映画のプロデューサーである小川真司さん、そして『浅田家!』のモデルとなった写真家浅田政志さんも来てくださった。両監督に話を聞くと、震災のことを描く上での葛藤があり、また、それを被災地の方々にどのように受け止めてもらえるかという点で大いに緊張したそうだ。

震災のことを真摯に描いた映画が被災地に届けられることはとても素晴らしいことだと思う。野田村の小田村長は言う。野外上映会を行う場所は、今は公園だが、昔は多くの家々があった。そこには野田の人びとの生活の営みがあった。そのことを忘れないでほしい、と。映画に描かれる震災を通じて、映画では描ききれない、震災前の日常を透かし見ることができるかもしれない。そんな映画祭が永く続きますように。

FUKKOU Vol.49(関西学院大学復興制度研究所, 2022)

今年は今年で9月30日に野田村で映画上映会があった。今年は『すずめの戸締まり』が選定され、権利の関係で体育館内での上映会となった。『すずめの戸締まり』は私はすでに映画館で一回、飛行機で一回見ているし、これを機に小説版も読み始めたので、細かいセリフまでけっこう覚えてしまったのだが、それでも野田村で観る『すずめの戸締まり』はまた思うところがあった。

東日本大震災を題材にした映画をその被災地で上映するということは、フィクションをフィクションのまま見ることを阻害するような引力がはたらく。でも、僕は、すぐれた物語は虚構であるからこそ現実を癒やすことができるのではないかとも思う。何かを描くことで描かれないものが浮かび上がるのだから。

当日は被災写真返却お茶会も行い、2枚の返却があった。震災から12年半が経過してもまだ写真を待っているひとがいる。『浅田家!』の後日談的な現実はまだ続いている。

真備から福井圭一さんにお越しいただきました!東日本大震災のときのご自身のお話から真備での洗浄活動のお話までじっくり伺いました。浅田さんとは約4年ぶりの再会とのこと。チーム北リアス写真班にとってとても良い時間でした。

これは浅田家!のポスターのニノになりきる浅田さん。浅田さん役のニノになりきる浅田さんという若干ややこしめの状況。

日常記憶地図@双葉町(質的心理学会企画)に参加して

福島県の浜通り相双地区にある双葉町は、震災前は7000人ほどの人口の町だった。南部に隣接する大熊町にまたがって東京電力福島第一原発があり、東日本大震災が起きた翌日の3月12日には全町避難がなされた。町民の定住が許可されたのが、2022年。つまり10年以上もの間、町民は一時帰宅以外には生まれ育った町に滞在することはほとんどできなかった。県内のみならず、全国に町民は避難した。役場機能も町外へ移転し、埼玉県加須市やいわき市で行政業務を行っていた(ちなみに今も双葉町役場いわき支所は残っている)。現在双葉町で生活をしているのは約100名ほど。家族を町外に残し単身赴任されている方も多い。震災を契機に移住者も多く、100人のうちの6~7割は移住者なのではないかとのことだった。役場職員も新しく採用した若手は、9割方町外出身者のようだ。また、町内には小学校をはじめ学校がない。(ふたば未来学園は広野町にある)

8月17日に日本質的心理学会が主催で、双葉町で日常記憶地図を行ってみようという企画が行われた。日常記憶地図とは、デザイナーのサトウアヤコさんが発案した、地図をもとに話をし、相手の話を聞き、共有する手法である。さまざまなやり方はあるが、たとえば小学校高学年ごろの生活世界の地図を用意し、そこに家や学校やよく行った場所などをプロットし、よく通った道を線で引き、それをもとに日常の記憶を想起する。私自身、サトウさんの手引きで日常記憶地図を体験したことがあるのだが、いままで誰かに話したことないような些細な出来事まで想起できて、非常に心地よかった。

これを双葉町でやるというのが、今回の企画の趣旨である。双葉町は、10年以上もの間、いわゆる復興から取り残された町である。町のいたるところに解体を待つ民家が残されている。町のいたるところに崩壊したままの建物が残されている。空き地となった場所にかつては何があったのか、震災前を知らない者には想像さえすることができない。それは震災後に新しく採用された役場若手職員も同様のようだ。なので、今回は、双葉出身の役場ベテラン職員が日常記憶地図を通して、かつての双葉町の様子を若手職員に話すということを主な目的とした。

17日の日常記憶地図WSで私は、長塚出身の方のお話をうかがった。その方は、長塚の商店街の出身で、すべて徒歩圏内の小学校中学校高校と地元の学校に通い、東京の大学を卒業後、双葉に戻ってこられた方である。地図はもともとは道路地図を用意してもらっていたのだが、役場の方の機転で住宅地図も用意してもらった。そのことが良かったのかもしれない。WSが始まると、「〇〇さんのところで~~」というような固有名と結びついた記憶が数々と語られた。また、地図の中の道を目で追いながら、「ここに行ってここに行ってその帰りにここに寄って~~~」のような地図上の道に沿った想起もなされていた。このあたりは、森直久著『想起 過去に接近する方法』に紹介されているナビゲーション実験との相似を感じた。地図もなく「昔の双葉の様子を教えてください」というインタビューではきっと語られない些細な(であるがゆえに重要な)日常の記憶が溢れ出ていたように思う。

翌18日は、前日お話していただいた方とともにまち歩きを行った。私には空き地にしか見えないところを指差し、「ここの商店は酒屋さんなんだけど、ラーメンがすごく美味しくて」と話してくださる。「ここには〇〇があった」というような、過去形の語りではなく、まさにいまそこにそれが見えているかのような現在形の語りであった。写真で撮ってしまえば、何もない空き地であっても、かつてを知る人にとっては、そこは空き地ではなく、〇〇商店とか駄菓子屋さんとか貸本屋とか中学校の場所なのだ。環境が二重化しているような感覚だった。たとえばVRなどで昔の町並みを再現しましたというやり方ではきっと想起されないような語りがあったように思う。

私は、こういった語りを聞いて、なにか双葉の過去を知れたという知的好奇心よりも、いまはない過去のさまざまな証を分け持つことで、それをせめて記憶からは消去させない責任の感覚のようなものを感じている。誰もの記憶からも消え去ったとき、それはほんとうにこの世から姿を消すことになるのだろう。だから、記憶を分け持つことの重要性を感じた。

この取り組みは、11月に開催される質的心理学会大会で報告される予定となっているようだ。どういった議論になるのか楽しみだ。

みぞれまじりの野田村にて

 今年は、野田村は、公式な追悼式典を行わなかった。震災から8年が経過し、そうやって、少しずつ、静かさを取り戻していくのかもしれない。
 でも、僕は、例年通り、献花台へ行き、白い花を海へ向かって手向ける。手を合わせて祈る。何に対しての祈りなのだろう。一昨年、イギリスから野田村に来た研究者は、こう言った。「われわれキリスト教徒は、こういうとき、神に向かって祈ることができる。でも日本人は、一体誰に向かって祈りをささげているんだ?」僕は、この問いに今もきちんと答えることができない。震災を機に野田村に通いはじめた僕は、亡くなった人びとの顔を一人も知らない。ただ、想像の中の誰かに向かって、それでも、ただ祈る。
 祈りとは、なにか巨大な事柄に対して自分には何もすることがなくて、それでも、何もしていないわけにはいかなくて何かをしなくてはならないと強く思うとき、ひとりの人間にできるほとんど唯一の行為なのかもしれない。

 14時46分が近づいてきて、いつも野田でお世話になっている方と献花台のそばで出会う。彼女は、近い親戚を津波で亡くされている。彼女は、視界に僕の姿を認めると、近寄ってきて話しかけてくれる。

「今日はひどい天気じゃない?今年はほとんど雪が降らなかったのに、こんなに降るなんて。まるで、3月11日という日を忘れないでって言われてるみたいだわ。だって、これだけ寒ければ、来年になっても覚えてるじゃない。そういえば去年も11日は寒かったわね。ほら、こうやって思いだせるの。でも、東北はこれからだんだん暖かくなっていくわ。暖かくなってくると暖かい雨が降るの。今日みたいな冷えた雨じゃなくて。暖かい雨は、今度はもっと暖かい雨を呼んでくるの。そうやって、この辺りも春になっていくのよ」

 これは、ほんの世間話に過ぎないのかもしれない。でも、僕は、彼女の言葉の中に、未来に向けたまなざしを感じ取ってしまった。これから来る春。そして、一年後の今日。それはきっと、「去年はひどく寒い日だったな」と思いだす日になるはずだ。
 僕は、そんな日が必ずやってくることを想いつつ、祈る。祈るとは、ときに、未来という漠然とした、ほんとうに存在するかもわからないものに対しての、ささやかな約束にもなるのだ。