桃太郎(深沢七郎風)

以下はChat GPTを使ってアレンジを加えた桃太郎の話だ。

私はエスノグラフィを書くことがあるのだが、できれば深沢七郎風に書きたいといつも思っている。その練習のためにAIに深沢七郎風に書かせてみた。

お題はなんでもよかった。およそ多くの日本人が知っているだろう桃太郎にすることで、ストーリーではなく、文体にフォーカスを当てやすいのではないかと思った。

「深沢七郎風に」とだけAIに注文すると、だいぶ微妙な仕上がりになるので、もっと人間に寄り添った感じでとか、文章の長短をいい感じに混ぜてとか、人間を見つめる暖かさとかなしみを溢れさせてとか、いろいろと注文をつけて完成させた。(ちなみに岡山弁らしき方言はAIが勝手に気を利かせてつけてきた)。

だからこれは深沢七郎の模写というよりも、私の理想の深沢七郎なのだ。

もしもいろいろと遊んでみたい方がいれば以下のURLからアクセスできるようにしたので、試してみてほしい。

https://chatgpt.com/g/g-684b784c23648191a05353f3da550ed4-orekasi-ushen-ze-qi-lang

桃太郎

むかし、ある村のはずれに、おじいさんとおばあさんが住んでいた。
山のかげで、風の通りがよく、夏はすずしくて、冬は早く日がかげる。
畑も田んぼもなかったが、野菜と芋とを育てて、ふたりで食べていた。

おじいさんは、山へしば刈りに行った。
腰が曲がっていたので、急な斜面では立ったまま眠ってしまうこともあった。
それでも、毎朝、草履をはいて出ていった。

おばあさんは、川へ洗濯に行った。
山の水が、石の間をつたって冷たかった。
指先がかじかむと、「ああ、生きとるなあ」と思うのだった。

ふたりとも、年をとっていたが、いちおう元気だった。
たまに隣の家から味噌をもらいにくる子どもを見ると、少し黙ってしまうことがあった。

ある日、おばあさんが川にしゃがんでいると、
上流から桃がひとつ、ふわりと流れてきた。

丸くて、大きくて、赤みがかっていた。
桃は、何も言わず、ただ流れてきた。

おばあさんはそれを、黙って見ていた。
手をのばすのが、少しためらわれた。
だが、誰もいなかったし、流れてしまえば、それっきりだった。

「もったいないけえの」
そう言って、おばあさんは桃をすくい上げた。

水が、袖までしみこんだ。
冷たさが、骨にしみた。

「じいさまが、好きじゃけえな」
と、小さくつぶやいて、桃を抱いて家へ帰った。

桃は、台所の木の盆の上でしずかに割れた。
中から赤ん坊が出てきたとき、おばあさんは叫ばなかった。
おじいさんは、その声を聞いて急いで帰ってきた。
ふたりで、湯を沸かして、赤ん坊の体を拭いた。
桃の香りが、まだ肌に残っていた。

名前は、桃太郎とつけた。
ふたりとも、特に相談はしなかったが、そう呼ぶのがしっくりきた。

桃太郎は、すくすく育った。
芋をよく食べ、よく笑った。
草履をぬいで裸足で走りまわり、魚を追いかけて川に飛び込んだ。
魚は取れなかったが、水をはねさせる音が、家の奥まで聞こえた。

おじいさんは、桃太郎と一緒に薪を割った。
おばあさんは、桃太郎と一緒に味噌をこねた。
だれも、むかしのことを話さなかった。
桃から生まれたことも、鬼がいるという話も。

けれどもある日、桃太郎は、土間に座ってぽつりと言った。
「鬼ヶ島に行こうと思う」

おじいさんは、煙草を手に取ったまま動かなかった。
おばあさんは、鍋の火を弱めた。

「そうかえ」
おじいさんが言った。

「なしてかの」
おばあさんが聞いた。

桃太郎は答えなかった。
でも、その背中を見て、おじいさんもおばあさんも、もう止められんと思った。

次の日、おばあさんは米ときびを炊いて、団子にした。
味噌を少し入れたから、やや塩気があった。
桃太郎の腰に、それをぶらさげた。

「食べきる前に帰ってくるような気がするけどのう」
おばあさんは笑った。
桃太郎も笑った。
笑いながら、目を伏せた。

おじいさんは、手拭いで包んだ刀を渡した。
それは昔、村に山賊が来たときに握ったものだった。

桃太郎は、何も言わず、頭を下げて家を出た。
ふたりは見送らなかった。
ただ、玄関の戸を開けたまま、土間にしゃがんで、湯を沸かしていた。

風が吹いた。
桃の木が、枝を揺らしていた。
葉のあいだから、夕陽がちらちら見えていた。

山をいくつか越えたころ、犬がいた。
耳がちぎれていた。
遠くから見て、桃太郎は声をかけた。

「団子がある。ついてくるか」

犬はしばらく桃太郎を見ていたが、やがて近づき、黙って後ろを歩いた。
団子はあげなかった。
それでも犬は、ついてきた。

その次の日、猿が木の上で騒いでいた。
桃太郎が見上げると、猿は団子の袋を見ていた。

「欲しいか」
桃太郎が聞くと、猿はうなずいた。
桃太郎は一つだけ渡した。
猿は食べてから、地面におりてきた。

「ついてくるのか」
と聞いたが、猿は答えなかった。
でも、木の枝を伝って、桃太郎の横に来た。

そのまた次の日、空にキジがいた。
桃太郎は立ち止まって見上げた。
キジは桃太郎の頭上をぐるりと回ったあと、前の岩にとまった。

桃太郎は団子を半分に割って、岩の上に置いた。
キジは、それをつついた。
それきり、桃太郎の少し前を飛ぶようになった。

犬と、猿と、キジ。
誰もしゃべらなかったが、誰もいなくならなかった。

夜、桃太郎は火を焚いた。
猿は近くの枝にぶらさがり、犬は地面に寝ていた。
キジは離れた木にとまっていたが、目は閉じていなかった。

団子は、もうあまり残っていなかった。
でも、足りなくなったら、そのときは分け合えばいいと思った。
黙っていても、そういうふうになっていた。

次の日、海が見えた。

船に乗ったのは、村の漁師が出した舟だった。
「鬼ヶ島に行きたい」と言うと、漁師は首をかしげたが、何も聞かずに漕いでくれた。

海は思っていたより静かだった。
桃太郎は舟のへりにもたれ、犬と猿は身を寄せていた。
キジは帆の上にとまっていた。

しばらくして、島が見えた。
岩がごつごつしていて、赤い屋根のようなものがいくつか見えた。
煙が出ていた。
鬼の家だろうか、鍋を焚いているのだろうか。

舟を降りて、浜を歩いた。
誰も出てこなかった。
犬が鼻を鳴らした。
猿は木をつかんで、上へ登った。
キジが低く鳴いた。

その声に、鬼が出てきた。

赤い顔をして、金棒を持っていたが、片足を引きずっていた。
目は大きかったが、何かをじっと見るような目ではなかった。

鬼は叫んだ。
何を言っていたかは、よく聞こえなかった。
桃太郎は、腰の刀を抜いた。

犬が吠えた。
猿が背中から飛びかかった。
キジが空から急降下した。

鬼は驚いたようだった。
転び、転がり、何かを叫び、
やがて、地面に伏した。

桃太郎はそれ以上、手を出さなかった。
鬼は、もう立ち上がろうとしなかった。
しばらくして、他の鬼たちが、奥から出てきた。

誰も戦おうとしなかった。
ある者は腰を抜かし、ある者は泣いていた。

桃太郎は、持っていた袋を開いた。
残っていた団子を、三つ取り出して置いた。

「これは置いていく。腹が減ったら食べてくれ」

鬼たちは何も言わなかった。

桃太郎は、犬と猿とキジと一緒に舟へ戻った。
舟はまだ浜にいた。漁師は網を直していた。

帰りの舟では、誰もしゃべらなかった。
海が青くて、空がまっすぐだった。

村に帰ったのは、夕方だった。
家の前には、火がともっていた。
おばあさんが、鍋のふたを開けていた。
おじいさんは、薪を割っていた。

桃太郎は黙って玄関に立った。
おばあさんが、ふと顔をあげた。

「おかえり」

それだけ言って、また鍋に目を戻した。

おじいさんは、薪の束をひとつ持ち上げて、
「団子は、足りたか」と言った。

桃太郎は、うなずいた。

犬はそのまま庭に寝ころび、猿は柿の木に登った。
キジは屋根の上で羽をとじた。

夕飯の匂いが、土間にひろがった。
その匂いのなかに、桃の香りが、まだ少しだけ残っていた。

2025年度になりました

2025年度になって所属は変わらないのですが、職位がひとつ上がりまして、准教授となりました。正式名称は福山市立大学都市経営学部准教授です。何も考えずに去年大量に作った名刺を全部作り変えないといけないです・・・。

年度末にショックなことがありました。私が3年間委員を務めていた福山市まちづくりサポートセンターの事業者が公募の結果、交代することになりました。これまでたくさんお世話になったスタッフのみなさんがもう「まちサポ」ではなくなるのかと驚くとともに、3月25日に事業者の変更を決定して3月31日にはまちサポを明け渡さないといけないという暴力的なスケジュールに胸が痛いです。まちサポのスタッフのみなさんは福山に対話の文化を根付かせてくれました。この根が枯れることのないように、大きく幹をつけ、花や実がなるように祈っています。そして、まちづくりという極めて長いスパンで取り組むべきことをたった3年の任期で首をすげ替えてしまうようなやり方が見直されることを強く望みます。

さて、今年度は日本質的心理学会の編集幹事長を務めることになりました。編集幹事長の最大のしごとは、査読委員の先生に「査読遅れていますよ」というメールを送ることです。宮前からメールが来たら至急お返事くださりますようよろしくお願いします>関係各位

また、日本質的心理学会の次回大会の準備・実行委員としてもすでに半年ほど動いています。来月あたりにはHPが公開されるのではないかな・・・と思います。ぜひみなさん質心大会に広島にお越しください。

2025年度から3年間の計画で、科研の基盤Cに採用されました。「よそ者が繋ぐ復興の力:過疎化地域における関係人口とコミュニティ再生の理論構築」というタイトルで、愛媛県西予市野村町を舞台に関係人口が復興にどのように寄与できるのかということを、これまで取り組んできたNEOのむらという一般社団法人での様々なネットワークをもとに考えていきたいと思っています。また、野村の酒文化である「サシアイ」が地域のネットワークにどのような影響を与えているのか、いわば「飲みュニケーション」研究も進めていきたいと思います。時代の流れに逆行しているようですが、飲み会の力は侮れないこともありますよね。

他にも、写真洗浄のことはそろそろまとめないとと思っていますし、福山でスナックの研究を進めていければと思っていますし、うちの大学は保育者養成系のコースもあるのでそういった研究も分担して進めていく予定です。防災の研究も進めています。

今年度もいろいろなところで多くの方にお世話になります。今年度もどうぞよろしくお願いします!

弱さのアイロニー

ボランティアは不思議な行為だ。

大災害を報じるニュースを見て、足がすくむ思いがする。自分は被災していないのに、自分なんかでは被災した方々のつらさを分かち持つことはできないのに、それでも居ても立っても居られなくなる。

極論すればボランティアには何もできない。それでもボランティアに行く。「何もできない」という自己否定は、しかしながら、ささやかな希望でもある。被災地に行き、一日ボランティアをし、しかし、被災した家の片付けはまったく進んでいるように思えない。あと何週間何ヶ月、この家の人はこのつらい片付けに向き合わなければならないのだろう・・・。私は家に帰れば暖かい食事にありつけてしまう。申し訳ない気持ちになる。だけど、そうやって気分が塞いでいても、被災した方から一言「ありがとう。助かったよ」と言われる。助かったのはこっちですと言いかける。

ボランティアは何もできない。だからこそできることがある。このアイロニーこそがボランティアの本質ではないかと思う。

しかし、「ボランティアは何もできない」という表面上の意味だけを知ったかぶりして、「何もできないボランティアが現地に行くのは迷惑だ」と批判する声が増しているように思う。ボランティアのような何もできない素人は引っ込んで、自衛隊などの「プロ」に任せておけばよいという一見合理的な主張が、見た目の正しさに引きずられて賛意を得ていく。ボランティアのアイロニーは、被災地から遠く離れた正しらしさによって無かったことにされていく。

いまはボランティアが出る幕ではないという主張はたしかに正しいのかもしれない。しかし、そうこうしているうちに支援の網の目から漏れ、苦しむ人は見捨てられている。ボランティアには何もできない。何もできないからこそ、目の前の寒さに凍える人に手を差し伸べることはできるのだと思う。

日本質的心理学会の優秀論文賞を受賞しました!

2022年3月に刊行された質的心理学研究第21巻に掲載の「実践としてのチームエスノグラフィ:2016年熊本地震のフィールドワークをもとに」(置塩 ひかる・王 文潔・佐々木 美和・大門 大朗・稲場 圭信・渥美 公秀と共著)が日本質的心理学会の優秀論文賞を受賞しました!

質的心理学会の優秀論文賞は毎回オリジナルの受賞名が付与されることになっていまして、本論文は「優秀フィールド実践記述革新論文賞」となりました!

この論文は、熊本地震のときのフィールドワークと論文中では触れられませんでしたが大阪北部地震のときのフィールドワークがもとになって書かれています。人類学などのフィールドワークは単独で行われることが多いのですが、災害救援となると人手が足りないことも多く、大人数でボランティアに行く機会が増えます。そういった、複数人で現場をうろうろすることを一つの論文としてまとめられないか、そしてそうやって書くことを通じて「チームエスノグラフィ」の可能性をひろげられないか・・・と考えて書いた論文です。

なので、質的心理学研究の中でも最も共著者数が多い(7人)論文となりました。たくさんの仲間と議論しながら、ときに励まされながら書いた論文なので、賞をいただけて感動もひとしおです。そして、なによりも現地のみなさんのおかげで書いた論文です。「チーム」とは研究者集団だけではない、というのが論文で書いた「サビ」の部分でした。

熊本地震のときに一緒にボランティアした同期が書いた本です。「チームエスノグラフィ論文」の別視点です。こちらもあわせて読んでもらえると嬉しいです。

黒潮町防災ツーリズムの特設サイトがオープンしました!

僕のゼミでもお世話になっている高知県黒潮町の防災ツーリズムの特設サイトがオープンしました。

黒潮町は南海トラフ大地震で最大津波高34mという想定がなされています。しかし、その一方で黒潮町は海からの恵みをとても上手に活用しています。

自然をただ怖れるでも恵みを享受するだけでもなく、自然とうまく付き合うための秘訣が黒潮町にはあります。

ぜひ関心のある方は上記HPをご覧になってみてください!

おすすめ

水に濡れた写真をお持ちの方へ

【追記】2023年6月に発生した水害からの一刻も早い復興を祈っています。私にできることを少しでもしたいという思いから以下再掲します。

福山市立大学で教員をしています宮前良平と申します。

私は東日本大震災の被災地である岩手県の野田村というところで津波で流出した写真の返却活動を行ってきました。また、その後、いくつかの場所で写真洗浄の方法を学んできました。被災された方からの写真をお預かりし、洗浄する活動もしてきました。

もしも、このページをご覧の方やそのお知り合いの方に被災して写真が濡れてしまったという方がいらっしゃいましたら、以下の画像および動画をご覧いただければと思います。写真の応急処置についてまとめられています。どちらも被災地で活動してきた私の友人が作成したものです。

写真の洗浄に関してご質問がありましたら宮前(r-miyamae@fcu.ac.jp)までご連絡ください。

私たちの手で大事なお写真を洗浄することもできるかもしれません。少しでもお力になれれば幸いです。

(22/09/24古いバージョンのチラシを掲載してしまっていたので最新版に差し替えました)

被災写真救済ネットワークさんのHPに詳しい洗浄方法など充実していますので、ぜひ参考にしてください。上記のチラシは被災写真救済ネットワークさんからお貸しいただいています。

以下の動画は、神戸市を中心に活動しているおたいさまプロジェクトさんの動画です。こちらもわかりやすく洗浄方法について解説されています。

「チームエスノグラフィ論文」が載りました

日本質的心理学会が刊行している『質的心理学研究』の第21号に私を第一著者とした論文が載りました!ただ,学会員でないとまだ読めないみたいです。たぶん1年くらいで一般公開されるはずです・・・!

タイトルは「実践としてのチームエスノグラフィ」です。ふつうエスノグラフィは一人で調査し,一人で書き上げるものなのですが,被災地に救援に行くときは,複数人で行くことがあり,そこで起きたことをチームとしてまとめあげることについて書きました。

こうやって書くと,チームでエスノグラフィを書くほうが内容も豊かになるし,事実確認(というか,いわゆる「裏とり」)もしやすくなるんじゃないの?って思われる方もいるかもしれませんが,実際はそんなに簡単なものではなく,複数人で書くからこそ見える事実が異なってしまい,結局のところ何が「事実」なのかわからなくなってしまうという事態に陥ってしまいまいがちです。この,複数の視点が乱立することで,事実が同定できなくなってしまうということを,黒澤明監督の映画『羅生門』にちなんで「羅生門問題」とか「羅生門効果」と言います。実際,チームエスノグラフィは結構書きにくいので,これまでほとんど研究成果がありませんでした。

この論文では,チームエスノグラフィにつきものの羅生門問題を,「なぜ同じものを見ているのに別々のように見えてしまうのか」という形ではなく,「なぜ別々の記述をしているのに同じものを見ていると信じてしまうのか」と問いを反転させることで,羅生門問題を新たな問いに気づくためのステップとして捉え直しました(この部分は矢守克也先生の議論を大いに参考にしています)。そうやって考えれば,チームエスノグラフィは気づかれざる前提に気づき,新たな実践を駆動させてくれる手法でもあるのです。

もうひとつ,この論文は熊本地震の被災地である益城町でぼくが出会った方々への恩返しのつもりで書きました。どこの誰かもわからない大阪から来た何人もの学生を,片付けなどで大変な時期にも関わらず,優しく受け入れてくれたみなさんがいたからこそ書けた論文です。ほんとうにありがとうございます。

福山市立大学都市経営学部に着任しました!

2022年4月1日付けで福山市立大学都市経営学部に講師として着任しました。任期は無しです。「しっかり腰を据えて研究に打ち込んでください」とありがたいお言葉をいただきました。

「都市」「経営」どちらも自分には無縁のワードだと思っていました。僕がよく通っている場所は農村部と言ったほうがふさわしいところですし,そんな地域が僕は好きなのです。被災地でのボランティア活動は,全く非経営的なものです。そう思えば,自分にはむしろ都市経営というよりも「農村」「非経営」のほうが似合っているなと思います。そんな感じで変わらず実践に研究に教育に打ち込んでいきたいと思います!

大阪大学賞ダブル受賞しました

令和3年度の大阪大学賞を2つ受賞しました!

1つは,緒方洪庵というお酒を作ったことに関係していて,もう1つは被災地での写真返却活動に関係しています。そしてどちらも被災地から生まれた活動という点で共通しています。そのことがとても嬉しいです。

この受賞は僕一人の力では全く無く,たまたま目立つ位置にいた自分が代表者として受賞させてもらったのだなと感じています。なかなか陽の当たることの少ない活動を地道に一緒に続けてくれた仲間とこの賞を分かち合いたいと思います。

https://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/honors/campus-award/ouprize/ouprize_r3

空白の傷を聞くとは(浅田政志さんとの対談)

2021年9月6日に本屋B&Bの企画として写真家の浅田政志さんと対談しました。

それを本書編集者の高松さんが再構成してくれました!ありがたい!前後編あります!

https://note.com/sekishobo/n/n0bb00cff2d7a

https://note.com/sekishobo/n/neb515758bb14

この度刊行しました『そこにすべてがあった バッファロー・クリーク洪水と集合的トラウマの社会学』の刊行記念対談です。本書の中で宮前がちらっと書いた「空白の傷を聞く」というモチーフを浅田さん宮前の視点から考えてみるという対談となりました。

トークイベントを見た私の母からは「アンタ、浅田さんに助けられたね・・・」とのこと。どれだけ助けられたかを確かめてみてください!

事実と誤読

本を読んでいると、さまざまな読み方をしたくなる。それが優れた書物であるならなおさらであるし、逆に言えば、多様な読みに開かれている本こそが優れているのだとも思う。

だから、著者が想像もしていない誤読というものもある。テキストをどう読んでもそうは読めないだろうという誤読もある。でも、そういった誤読も、読みの可能性を広げるという意味でよいことであるし、否定されるべきではないだろう。もちろん、「正しい読み方」というものもあるだろうが、それを著者をはじめとする誰かによって強制されてはいけないと思う。

そんなことを考えたのは、桜庭一樹さんの小説『少女を埋める』にまつわる騒動を知ったからだ。『少女を埋める』は桜庭さんが経験したことをもとに書いた私小説の味わいがあり、主人公(「冬子」)の名前こそ違えど、小説の舞台となっているのは桜庭さんの出身である鳥取県だし、桜庭さんの作品である『GOSICK』や『赤朽葉家の伝説』が主人公の著作として描かれている。本小説を書評家の鴻巣友季子さんは「ケア」の小説として読んだらしい。らしい、というのはその書評がオンライン上では朝日新聞の有料会員でないと読めないことになっており、直接読めていないからだ。そして、その書評内には、冬子の母が父(母からすれば夫)を介護中に虐待したのだと紹介されている。しかしながら、著者の桜庭さんは、このような「事実」は無いとして、書評の修正を求めている。ということのようだ。(詳しくは以下のまとめがわかりやすいかもしれない)

https://togetter.com/li/1765531

この小説がまったくの創作であったのなら、どんな牽強付会な読み方をしていても良いだろう。しかし、この議論において問題なのは、『少女を埋める』という小説が一種の私小説として書かれており、読む人が読めばモデルが誰なのか一発で分かる点にある。すなわち、書評で「虐待があった」と紹介してしまうことは、単なる読み間違いというテキスト上の問題で解決されず、「本当に」虐待があったという事実レベルでの誤認を生みうるという点に、この対立の核がある。(テキストをきちんと読めば介護中の虐待はなかったとしか読めないという意見や、あらすじと批評の区別に関する問題点とか、そもそも文芸批評の媒体自体に問題構造があって・・・というような話もあるのだが、ここでは立ち入らない)。

私が思うのは、本小説が私小説であることのナイーブさをどのように捉えるべきなのかということを考えておかないといけないということである。私小説として発表するということの覚悟をどのように持つべきなのか、そしてその覚悟を読者はどのように受け取るべきなのかということである。

先に断っておきたいのは、『少女を埋める』という小説には、著者である桜庭さんの配慮が微に入り細に入りなされているということである。父の看病(それは結果的には看取りの旅になってしまうのだが)のために鳥取に帰省した主人公の冬子は、鳥取に暮らす親戚たちとも会うのだが、そこで、ともすれば女性蔑視と受け取られかねない、というか文字だけ見れば明らかに差別的な発言(「女の子がりこうだと困る」みたいな)を聞いている。しかしながら、冬子は、そういった差別的な発言が、田舎の因習的な構造によってなされていること、またそういった発言もよくよく考えれば冬子のためを思ってなされていることを丁寧に記述する(小説全体のモチーフとして用いられる「人柱」が効いている)。それでもやはりそういった差別は社会的に許されるべきではないことも小説内で何度も繰り返されている。このバランスをとるためにどれだけの工夫がなされているのか。私には到底できないほどの配慮である。

また、小説の中で繰り返し述べられる「記憶の危うさ」についても、小説に深みを与えていると同時に、ここで書かれていることは著者である私の思い込みに過ぎない部分もあるというエクスキューズとして機能することもできて、小説内に登場している現実の人びとを傷つけないための安全機構が何重にも張り巡らされている。さらにさらに、意図して書き落としていると思われる箇所が何箇所もあり、その書き落としこそが本小説の主題を支えているのだから、すごい。書かないことによって、登場人物を守り、小説としての輪郭を描いているのである。

とはいえ、やはり、小説として世に出した以上、読者には誤読する自由はあり、そういった誤読に著者のみならず小説に登場させた人物までさらされてしまうことは避けられない。私が普段書いているエスノグラフィもまた、そういった意味で私小説と共通している。エスノグラフィに書かれるのは基本的には現実に起きたことである。だから、登場する人もみな実際に私が出会った人たちであるし、いくら匿名化していても、読む人が読めば、本人を特定できてしまう。

そういった文章の書き手として、私の意図で文章内に登場させてしまった人たちを、誤読から守りきる覚悟を持たねばならないと思った。それはものを書く人間としての最低限の倫理であると。

そう思ったのは、アメリカの社会学者であるアリス・ゴフマンについての論文(前川, 2017)を読んだからかもしれない。この論文では、アリス・ゴフマンの書いたエスノグラフィー『オン・ザ・ラン』についての内容およびその「場外乱闘」についてとてもよく整理されている。『オン・ザ・ラン』の舞台はフィラデルフィアの貧しい黒人街区「6番街」。そこにアリス・ゴフマンは、6年間住み込みながら、フィールドワークを行った。それは参与観察と呼ぶにはあまりにも現地での暮らしと一体化したものだった。6番街の若者と「デート」をしたり、ときには法律すれすれの行為もしていたらしい。また、6番街で生活をともにした長年の仲間チャックがギャングの抗争の結果銃殺されるといったこともあったとのことである。

彼女のエスノグラフィには、6番街を中心に行われた数々の違法行為が描かれているが、彼女は調査対象者の保護のため、その証拠となりうる日々の調査ノートをすべて焼却処分した。いわば、そこで描かれていることがどの程度事実なのか、どの程度戯画化されているのかを決定できなくした。もちろん、彼女の調査は、法律に違反している貧困街の黒人たちを告発するものではないし、そのことが伝わったからこそ、彼女は仲間として6番街に受け入れられたのだろう。しかし、エスノグラフィ中に描かれていることの「証拠」がなければ事実性は揺らぐ。『オン・ザ・ラン』というエスノグラフィがアリス・ゴフマンの想像によって書かれたフィクションに過ぎないという論駁を否定することはできない。そのテキストを裏付けるものが消失したことで、フィクションとノンフィクションが混ざりあってしまっているからである。

現実に存在する人を書くとき、そしてその文章が広まり、その文章を誤読する人が出てきたとき、その誤読の豊かさを活かしながら、しかし「事実は違う」と主張することはどこまで有効だろうか。「事実」を知っているのはあなたではなく私なのだからという主張は、解釈の多様性を奪うことになってしまう。一方で、テキスト上に書かれていることは文字化された時点で多かれ少なかれフィクションであると言ってしまうのも、「本当にあったこと」を軽視してしまう。事実とフィクションを切り分けて、「あなたはそのように読んだのですね。でも事実は違います」と言うことは、ともすれば、事実とフィクションをあえて混同させる私小説の面白みも失わせてしまうように思う。

なんともうまく解決できる方向性が見えていないので、結論めいたことは言えないのだが、少なくとも、ごく少数の読み方だけでとどまってしまわないほうが望ましいとは思う。いろんな誤読があっていい。そしてそれはもっとたくさんの誤読にまみれたらいい。その中にもしかしたら、偶然、的を射た読み方があるのかもしれない。

前川真行. (2017). 公正と信頼のあいだ : アリス・ゴフマンのケース. RI : Research Integrity Reports, 2, 14–38.

新型コロナウイルス生活記録文集『新しい普通を生きる』

昨年度に引き続き、「エスノグラフィを書く」という授業で学生たちに書いてもらったオートエスノグラフィを文集にしました。ご興味のある方はご覧いただけますと幸いです。(公開にあたっては受講生たちに承諾を得ています)

https://r.binb.jp/epm/e1_200919_20082021164427

「はじめに」でいろいろと書きましたので、こちらにも載せます。

 新型コロナウイルスの感染拡大が収束しないばかりか、拡大のスピードはさらに増しつつある。昨年の今頃は第二波の最中であったが、今となっては遠い昔のようである。きっと来年の今頃になれば、一年前のことなどほとんど忘れてしまうのだろう。
 だからこそ、いまここで私たちが見聞きし感じていることを記録として残す価値は増しているように思う。どのような形であれ、記録として残しておけば、自分がたしかに生きていた証になる。
 本文集は大阪大学の一年生向けの授業である「学問への扉」の一つとして開講された「エスノグラフィを書く」の報告でもある。本講義は昨年度に引き続いて開講され、今年度も一七名の学生が受講してくれた。学部もバラバラ出身地もバラバラの一七名が一人ひとりの経験を自分の言葉にしている。
 昨年度もこのような形で文集を作ったのだが、昨年度のものと比較するといくつかの違いが見えてくる。その中でも特に私が興味深いと思ったのが、本年度の学生たちは新型コロナウイルス感染対策社会を「当たり前のもの」として捉えている点である。例えば、緊急事態宣言が出て授業がすべてオンラインに移行しても、そうなることは最初から織り込み済みであったかのように適応するのである。この適応能力の高さには、いまだにオンライン授業に慣れることのない私からしたら羨ましい限りであった。
 しかし、裏を返せば、今年の学生はコロナ禍ではない学生生活を上手くイメージできていないようでもあった。いわば、学生生活とは普通はこういうものだという想像が上手くできずにいるように思われた。学生の手記の中に「当たり前」とか「普通」という言葉が出てくるが、その言葉の意味するものが、少しずつ「コロナ禍での生活」になってきているように感じた。彼らにとっての「普通の生活」は、すでに「コロナと共生する生活」とイコールになりつつある。
 とはいえ、もちろんすべての学生がこのような感覚を持っているわけではない。一七人の手記には一七人の体験があり言葉がある。それらは一人ひとりに特有のかけがえのないものである。その一つ一つを漏らすことなく記録した本文集がいつかの誰かの目に留まればいいなと思う。

大阪大学大学院人間科学研究科 宮前良平