大山顕『新写真論』

SNS時代の写真論について書かれたものである。著者は、『工場萌え』などでおなじみ、写真家の大山顕さん。ときおり、カメラの技術的進化にも触れながら、論じているのがおもしろかった。写真が人間の認知を変えたのだというような写真決定論が勇み足な箇所も見受けられたが、全体的に面白く読めた。

本書の主張の要点は、写真の変容を「撮影者×被写体×鑑賞者」の3軸から捉えてみようということである。そうは明示されていないが、そうやって読むと、いささか断片的な各章のつながりが明確になるように思う。
あえて、単純化して表にまとめると、以下のとおりである。

撮影者被写体鑑賞者
かつての写真ノーバディ(非人称的存在・幽霊)特に限定なし(家族や風景がメイン)家族等に限定
現代の写真〈私〉私・シェアされるもの不特定多数の他者・AI
写真の変容

以下、撮影者、被写体、鑑賞者の順で論をまとめていきたい。

①撮影者について

 カメラは非人称的なものだった(p.150-)。写真を見て、私たちは撮影者が誰であるかを気にしない。たとえば集合写真は、その場にもう一人写っていない人間(=撮影者)がいるということを消去することによって成り立つ。いわば、撮影者は「幽霊」という非人称的な存在であった(p.82)。同様にカメラも、その存在が明確に意識されることはない透明なメディアであった。いわば、小説における地の文的な「ゼロ人称」であった(p.164)。しかしながら、自撮りの登場によって、撮影者は対象者と同一になり、撮影者の存在が顕わになった。そして、写真をスマホで見ることによって、撮る媒体と見る媒体が同一化し、カメラの存在が可視化されるようになった。
 写真の撮影者が顕わになるということは、写真を撮るという行為が、何かを伝えることではなく、そこに自分が存在していたことを証明することに変容していった。「レストランで料理を撮ったり、旅行に出かけて風景を撮るのも、ほとんどすべての撮影は経験を確かめるための行為なのではないか」という指摘は興味深い。それはきっと、撮影された写真をSNSにアップすることで衆目に触れさせるということと地続きなのだろう。それは、SNSの批評で時に言われる「自己愛の承認」というよりも、もっと人間が生きるうえで根本にある「自己存在の承認」の集合的なバージョンなのではないだろうか。
 また、私たちはもともと俯瞰したイメージで自分を捉えることができている(抑圧身体、本書で紹介されている概念で言えば「四人称」)。しかし、近代のカメラの登場によって、FPS的な一人称視点こそが人間の視点であると思うようになった。「「見る」という行為を個人のものだと思うようになった」(p.157)わけだ。しかし、現代においては、ありとあらゆる視点からの写真が撮られ、あるいは衛星写真などの遠近法の狂ったのっぺりとした写真が増えることで、知覚は再び集合化されるようになった。それは、本書には明示されてはいないが、写真による集合的な視覚文化のひとつと言えるだろう。
 写真は歴史において長らく「父」が撮るものであったという指摘も面白い(p.191-)。そこには、父権主義が透けて見える。それに対して、現代は、写真撮影が個人化し民主化された時代であるとも言えるだろう。一家に一台から一人一台へというカメラの普及は、技術的な進歩以上に、社会的な変化を誘発しているというのは言い過ぎだろうか

②被写体について

 被写体の変容について重要なことの第一は、自撮りによる私の撮影である。それはすでに述べた通りである。現代の写真は、自撮りの登場によって撮影者と被写体を同一化させてしまった。
 被写体の変容について、自撮りの登場以外で重要なことは、シェアされるための被写体が好まれるようになったということである。その筆頭が猫である(p.214-)。大山が指摘している通り、「現代の写真論は、もはや猫を避けて通ることができない」(p.215)。しかし、その写真はどれも同じようなものばかりでオリジナリティが無い。しかしながら、その定番化された画像こそが、毎日のシェアをしたくなるという人間の欲求に応えているのである。また、猫は犬と比べて誰かの所有物という感じがしないからシェアに向いているのではないかという指摘も首肯できる。
 それに対して、かつての写真の被写体の題材として本書が取り上げているのが「心霊写真」である。もちろん当時(19世紀後半から第二次世界大戦まで)も、心霊写真は科学的に否定され続けてきた。それでもなお心霊写真が重宝(心霊写真専門の写真家もいた)されていた理由は「心霊写真は、一部の科学者たちを除けば、心霊の存在の証拠というよりも死者の思いをなんとかこの世に導入したいという人々の呪術的欲望の産物だったと言えるだろう」(長谷, 2004, p.78)。いわば、家族を亡くした遺族にとって「写真が証明すべきなのは家族の愛の存在であって、霊の存在ではなかった」(p.77)のである。現代は、心霊写真が撮れなくなってしまった時代、つまり、心霊写真によって故人とのつながりを維持することができなくなってしまった時代ということもできるだろう。

③鑑賞者について

 かつて写真は、家族・親戚あるいは知人が鑑賞者であった。むしろ、写真というプライベートなものを、それ以外の人が目に触れる機会は無かった。いやむしろ、SNS以前の写真は、ほとんど誰の目にも触れることは無かった。多くても数人にしかみられることは無かったのだ。そういう意味で、SNS時代の写真の大きな特徴は、鑑賞者の爆発的な増加である。先ほどの猫の話も、猫の写真自体がよくできているのではなく、それをシェアする人が多いことによって、写真の価値を決定づけている。大山が端的に述べているように「写真のありかは撮影者から閲覧者へ移行した」(p.111)のである。
 そして、もう一点、大山が現代の写真の鑑賞者として取り上げているのはGoogleなどに代表されるAIである。膨大に撮られるようになった写真の一枚一枚を私たちが見ることはもはや不可能になりつつある。その中で、AIだけがすべてを見て、アルゴリズムを用いて私たちに数枚ずつサジェストしてくれる。このとき選ばれた写真は私たちの「思い出」だろうか。「過去」だろうか。もはやそのような言葉では言い表せない状況になっている。それは、写真を撮るという行為自体が、データを保存し、アルゴリズムに従ってAIに取り出してもらうという行為を内包している。大山は、こんにちの写真を以下のように定義づけている。「こんにちの写真とは、写真それ自体のシステムのことである。写真は人間のものではなくなったのだ。こんにちの写真とは、人間のためのものではなくなった、それ自体のシステムのことである」(p.264)

 最後に、大山が述べた写真はシステムであるということの意味について考えてみたい。ここで重要なのは、かつての写真は、撮ること自体が目的であったということである。たとえば、大山は、家族写真について論考を深める際に、「写真館の本質は優秀な舞台設定サービスだった」(p.189)と述べる。そこで撮られた写真がどういうものなのかというよりも、写真館という整えられた舞台で家族写真なるものを撮るということ自体が家族写真を家族写真たらしめている。また、大山はSNS以前の写真について「ほとんど人に見られなかった」(p.225)ということが重要であると指摘している。つまり、SNS以前の写真は、見られることではなく、撮ること自体に意味があったのだ。何かのために撮るのではなく、撮るために撮るのが少し前の写真だった。

 それがいまや写真は見るためのものに変容してきていると結論づけるのは早計である。それだと、写真は大衆化されたという言わばすこし古い結論にしかならない。ここで大山が「システム」と述べたことに留意する必要がある。つまり、現代の写真は、再び、誰の目にも触れられなくなっている。それは、SNSなどでの写真の氾濫がじつはもっと膨大な人の目に触れられていない写真のごく一部にすぎないということを示している。僕たちのスマホに撮りためてある膨大な数の写真は、誰の目にも留まらない。撮ったはずの自分でさえも見返すことのない写真ばかりである。そういった写真を見るのはAIである。AIが見るために写真は撮られる。そこでの人間の役割はもはや「AIによって選別されるべき写真を撮る撮影係」でしかない。あるいは、監視社会の進展によって、ありとあらゆる世界が画像として記録されるようになれば、撮影係としての人間さえも不要になるかもしれない。このような、撮影も選別も現像もそして鑑賞さえもAIが行うようなシステム、つまりAIによるAIのための写真の生産構造こそが、大山が述べる「写真システム」である。

 かつての写真は、人間がそれを撮っているということを不問にすることで成立してきた。それは、何が写っているのかということが重要だったからである。いわば、写真の被写体主義の時代であった。しかしながら、写真が大衆化することで、何を撮ったのかではなく、誰が撮ったのかということが重要になってきた。それは、スマホに代表されるような技術進化による自撮りの登場の影響である。ここにおいて、写真の撮影者主義の時代が生まれた。そして、SNS時代においては、誰が何を撮ったのかではなく、誰がそれを見ているのかということが意識されるようになった。いいねの付きそうなテーマが重視されるようになった。これは、写真の鑑賞者主義の時代といってもいいだろう。そして、最終的には、誰も撮らず、誰も写らず、誰も見ない写真の時代がやってきつつあるだろうというのが大山の見立てである。この写真のシステム主義=人間不在主義が到来したとき、写真はいったいどのような意味を持つようになっているのだろうか。本書の読者の一人として大きな宿題をもらった。

撮影者被写体鑑賞者
被写体主義ノーバディ家族などの撮られるべきもの家族など限定された人びと
撮影者主義私(自撮り)不特定多数の他者(SNS)
鑑賞者主義ノーバディシェアされやすいもの不特定多数の他者(SNS)
システム主義人間・AIあらゆるものAI

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文集『パンデミックを歩く』について

2020年度前期の授業で、大学1年生に新型コロナでの自粛期間中の生活について、オートエスノグラフィックに記述してみようという課題を出した。その出来があまりにもよかったので、文集化したのだが、より多くの人の目に触れてほしいという願いをこめてインターネットにも公開する。以下のURLから閲覧可能である。

文集のすべてが公開できたわけではない。プライベートなことを書いてくださいとお願いしたので、知り合いに見られたら困るという学生もいる。だから、ここで公開できたのは、ほんの一部にすぎないことをあらかじめ了承してほしい。逆に言えば、公開されていない文章もまた本文集の大事な一部である。

https://r.binb.jp/epm/e1_158115_03092020105328/

ついでに、私が書いたまえがきも載せておく。

 二〇二〇年がこのような年になると予測できた人はいないだろう。それくらい、新型コロナウイルス(COVID-19)の猛威は未曽有であった。

 新型コロナウイルスは、わたしたちの問題である。わたしたちの生活は、修正を余儀なくされ、何の権限があってか知らないが、誰かが勝手に「新しい生活様式」を制定するにまでいたっている。そこからもはや逃れることができない。感染の有無にかかわらず、ありとあらゆる人が少なからぬ影響を受けている。

 しかしながら、この新たな生活を粛々と営む一市民の声は、いともたやすく忘れ去られてしまう。変化があまりに急激すぎて、四月や五月に自分が何を考え、どのように生活していたのかについてほとんど思い出すことができない。未来のことを語る前に、現在のことをしっかりと記録しておくことが必要だ。(ちなみに僕はウィズコロナという言葉が嫌いだ。「コロナ」がウイルスのことを指しているのか、蔓延した社会のことを指しているのかが不明瞭だからだ。そして、これは偏見なのかもしれないが、ウィズコロナと嬉しそうに語る人たちは、現状の社会を変える「口実」としてコロナと言っているに過ぎないように感じてしまう)。

 本文集は、二〇二〇年度に大阪大学で一年生向けに開講した「学問への扉」の中で、人間科学研究科の教員である宮前良平が担当している「エスノグラフィを書く」という授業の受講生一七名が書いた生活の記録をまとめたものである。テーマは多岐にわたる。「マスク」や「トイレットペーパーの買いだめ」というものもあれば、「自粛生活中の憂鬱」など、ほとんど一度も登校することなく自粛生活を余儀なくされた大学一年生のありのままが描かれている。

 それぞれの文章は、オートエスノグラフィという方法論を基盤において書かれているが、方法論に固執しているわけではないので、最終的には学生ひとりひとりの自由なやり方に任せた。その中でも、僕は、一教員として一点だけ注意を促した。それは、「自分が経験したことを具体的に書くことを徹底すること」である。これは僕のポリシーなのだが、中途半端に一般化した文章よりも、とことん自分のことを具体的に書いた方が伝わることが多いと思う。一般化は学問において強力な手段ではあるが、かえって言葉が薄まってしまうこともある。まるで、全戸配布されたあのマスクのように。そうではなく、具体的に生きられた経験を煮詰めて「結晶化」することにも学術的意義があると考えている。自己から発せられる共役不可能な言葉にこそ、他者と理解しあえる回路が埋め込まれているのである。この挑戦が成功しているかどうかは、実際に本文集を読まれた方に判断していただければ幸いである。

 本文集は、ほとんど登校できなかった学部一年生たちの貴重な記録である。この新型コロナウイルスの騒ぎがいつまで続くかは定かではないが、本文集がそれぞれの人生の一ページとして長く記憶されることを祈っている。

大阪大学大学院人間科学研究科 宮前良平